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第60話

* まどろみの中で、つい先程見たばかりである不気味さを孕んだ【かつての王宮にあった西瓜畑】の光景が『たすけて……たす……けてっ____』と両目に大粒の涙をを無我夢中で逃げる尹儒を執拗に追い掛けてくる。 かつて、母と夕暮れに包まれた王宮の中庭で行った影追いの遊戯で、どんなに逃げようとしても、暗闇がじわじわと迫り、遊び終えるのを余儀なくされるまで追い掛け続けてきた己の影のように____。 かつて、この世に存命していた際に気紛れで王宮を訪れた今は亡き葉狐様と共に夜の宮殿内を散歩していた時に、いくら歩いて場所を変えようとも己を追い掛け続けた大きくて歪さなど微塵もないくらいに完璧な円形で尚且つ人々を魅了する美しい光を放っていた満月のように____。 しかしながら、そんな心地よいのか悪いのかよく分からないような、不思議なまどろみも突如として終わりを告げる。 一瞬前までは、不気味さと恐怖を孕んだ【かつての王宮にあった西瓜畑】の光景が、まるで万華鏡の模様の如く、瞬く間に切り替わった。 まどろみの中、まるで朝靄がかかったかのように、はっきりとしない尹儒の眼前に見えるのは一人の少年の姿____。 回り一面、赤と黄が入り交じった紅葉に彩られた景色の中に佇む珀王は『おい……っ……おいっ____』と、戸惑いの色を浮かべて咄嗟に足を止めてしまった尹儒へと手招きしながら繰り返し呼びかけているのだ。 ずっと一人で心細さを抱えていた尹儒は、頭で考えるよりも先に体が動いてしまい、心の奥底では不安を感じつつも近寄っていこうと一歩足を踏み出してしまう。 すると、今までは――そよ風が吹き付けて周りに植わっている赤と黄の紅葉の葉が、ちらりちらりと地に落ちる穏やかともとれる風景が瞬時に切り替わり一変してしまう。 穏やかな世界から、鳥の冴えずりは消え――橙に染まり辺りに降りそそいでいた陽光は一瞬にして消え、周囲が陰りに支配される。 更には普通であれば有り得ないくらいに異様な速さで、活気に満ちていた紅葉の木は枯れ果ててしまい、尹儒の目を引いていた赤と黄の葉は全てが乾ききった地へと舞い落ちてしまったのだ。 しかし、目の前に広がっていた風景の大部分が瞬時にして様変わりしようとも、ひとつだけ変わらない存在があった。 あまりの恐怖のせいで硬直しきり、顔面蒼白となりつつ言葉を発せない此方へ向け、この異様な状況に陥っても穏やかな笑みを浮かべつつ『おい……っ……おい____』と呼びかけている珀王の姿は先程までと比べて寸分違わない。 しかし、心の底では『近づいてはだめだ』と思っていた尹儒だったが、その一方で不思議なことに再び前に進み始めた足の動きは止まらない。 そうして、不気味としか言い様のない【珀王】の目の前へ来た時に何の気なしに真下へと目をやった。 すると、そこに――小さな何かが落ちていることに気付いた。 大部分は枯れ果てた紅葉の木から舞い落ちてしまった葉っぱだと気付いたが、それにしては何かが変だと感じた尹儒はその場で屈み込むと、じっくりと観察するべく目を皿のようにして見つめ直す。 きらり、と――その場所が光った気がして、おそるおそる拾い上げてみようと右手を伸ばす。 「いっ……痛……っ____」 右手の人差し指に、一瞬だが痛みが走り慌てて引っ込めてしまう。 紅葉の葉っぱそっくりな形に割れた壺の破片を拾い上げようとしたのだが、その直後に、まるで誤って指を縫い針で刺してしまった時のように鋭い痛みが走り、尹儒の人指し指の腹を傷つけたのだと理解した。 その出来事は、ずっと前に母である魄と変わった名前で呼ばれていた【母の付き人だという男の人】と一緒に縫い針で小さな人形をつくったのを痛みと同時に思い出させた。 【変わった名前で呼ばれていた母の付き人】は、その記憶を境に今の今まで己の前には姿を見せていない――と尹儒は今更ながら不思議に思う。 だが、はっと我にかえった尹儒は頭を左右に振った。 暖かな気持ちと共によみがえった、かつての思い出と母の付き人だった変わった呼び名の男の人という存在を強引に忘れるようにしたのだ。 (今は……思い出にひたってる場合じゃない……何とかして狐のおにいちゃんと……母上を探すんだ……っ____) 『尹儒様、恐れを抱いているだけでは、前に進めない……』 『時として、恐怖からおののき身を引くことよりも、前へ進むことの方が必要な場合もありますよ。針の鋭さを恐れて手を止めるばかりではなく、この人形を作り終えるために、恐怖が起こるなどという余計なことを考えずに、じっと手元を見ながら縫い続けるのです。それが出来ると信じています。あなたは……間違った道を選んだ――あの人とは違う』 どこか遠い目をしつつ、夜空に浮かぶ満月を見ながら、かつての母はそう教えてくれた。 つまり、恐怖を抱き足(手)を止めるばかりではなく、時として恐れを受け入れた上で前に進むため次なる行動に移すことも大切だということだ。 母が言っていた【あの人】とは誰のことなのか、明確には教えてくれなかったけれど____。 前に、王宮に仕える誰だったかもそう言っていた。 (そ、そうだ……長いこと王宮に仕えてきた世純という男の人もそう言っていた……とても厳しくて顔も怖かったから……ぼくは苦手だったけど……) ふいに、脳裏をよぎったのは王宮に長いこと仕えている世純という赤守子の存在だ。現王である父や王妃である母に甲斐甲斐しく仕えている上級守子達の中でも極めて優秀で、それゆえ厳しい男だけれど、よく母上がいない時には自分の世話をしてくれていた。 父である燗喩とは、かつて仲違いしていたものの、今では新友という程に互いに気兼ねなく接しているという。 それゆえ、尹儒は世純という男が教えてくれた言葉を受け入れて信じるのは、正に今この時だと思った。 恐怖に怯え身を引くのではなく、希望を抱きながら目の前にいて自分に向かって手招きする珀王の元へと歩んでいき、言葉をかけるという行為を行ってみようと決心したのだ。 それでも緊張のためか早鐘のように心臓が鼓動しているが、確実に足を前へと進めていく。 そして、僅かばかり大袈裟に息をひとつ吸うと、初めて特別な想いを抱いた彼の体を抱き締めつつ、その名を呼ぼうと「は……」と蚊の鳴くような声を出しかけた。 むろん、尹儒の顔は林檎の如く真っ赤に染まっている。緊張と再会したことによる嬉しさのせいで、両目を閉じつつ余韻にひたっている尹儒。 しかしながら、ここにきて唐突に珀王に異変が起こる。 梟のように、ぐるりと勢いよく首が一回転したのだ。更に、先程までは『おいっ……おい____』と発していた声も途端にぴたりと止んだ。 変わらないのは、笑みを浮かべている表情くらいなものだ。 抱き締めている相手の首が一回転したというのに、両目を閉じたまま余韻にひたっている尹儒は気付けない。 そして、『おい……っ……おい____』という自分に対して呼びかけているであろう声が途端に止んだという違和感も、無事に再会できたと余韻にひたって夢見心地である尹儒には届かない。 【ゆ、ん……じゅ……】 「は……く____」 自分の名を呼ぶ相手につられ、尹儒は目を開けて続けて名を呼び返そうと思い直した直後――ふいに、相手の背後にある枯れた紅葉の木の枝に何かが停まっていることに気付いた。 雀が一羽、枝に停まりながら此方をじいっと見つめているのだ。 そして、不思議なことに――その雀の目に涙が浮かんでいるように尹儒には見えたのだ。 雀が本当にそこにいるのか、それとも見間違いなのかは分からない。 だが、尹儒はそれを無視して、今までやろうとしていたこと――つまりは珀王の名を呼び返すということをやり遂げることができないと本能的に感じて咄嗟に退いてしまった。 ____危険だ、と思ったからだ。 この場にい続けるのは、とても危険だと本能的に察知した。 だからこそ、尹儒は手に握ったままでいた紅葉の葉っぱそっくりな形に割れた壺の破片を自分の左腕へと突き刺したのだ。 立っていられない程の激しい痛みが襲いかかり、がくりと両膝をついてから地に倒れ落ちてしまう。 とてもじゃないが夢とは思えないくらいの鋭い痛みのせいで、ぼろぼろとひっきりなしに流れる涙のせいで視界がぼやけ、更に腕に走る痛みに負けず劣らずの激しい頭痛にまで襲われてしまい、自分の運命というものを心の中で呪わずにいられなかった。 そもそも、このような異様としか言えないことが何も起きなければ、今頃は王宮の中で母と共に穏やかな暮らしを過ごせていたのだ。 現王という国の未来を背負う立ち場で公務に追われている父の燗喩とだって、頻繁にとはいえなくともたまには家族水いらずで過ごせていた。 更にいえば、王宮とは離れた場所にある《男子禁制》の妃宮にだって、頻繁にとはいえなくとも周の内の何回かは行くことも可能だったのだから《葉狐》や《薊》――それに《珀王》とだって皆で一緒に茶をすることくらい普通に出来ていた筈なのだ。 厳しくも妃宮という場を取り締まる威厳のあった尊大な《葉狐》は何者かに命を奪われ、自分にも優しく立派に血の繋がらない珀王を育て上げた《薊》は、母と同じように行方不明____。 父である燗喩とも、長いこと会話をするのは愚か、会えてすらいない。 (どうして……っ__どうして神様はこんな仕打ちを……っ……ぼくなんて、ぼくなんて……生まれてこなければ良かった……そうすれば、みんなはこんな目に……あわなかった……) 負の感情が、尹儒の狭い心を支配する。 ぎゅうっと、握り締めた拳に段々と力がこもってゆく。 徐々に薄れゆく意識の中で、尹儒は己を呪わずにはいられない。 その自分に対する怒りを発散するかのように、益々強い力で手に持った壺の破片で左腕を刺し続ける。 もしかすると様々なことが一気に身に降りかかり過ぎて、既に狂ってしまっているのかもしれない。 だが、このように狂気とも取れる行動をしているのは――全ては夢見心地だった自分の過ちを正すためだ____。 *

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