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第61話

* 何の前触れもなく突如として尹儒の目の前に迫ってきたのは、先端が鋭く尖っているもので更に耳を刺激してきたのは、懐かしささえ感じる珀王の怒りをあらわにする声だった。 突如として先程までとは光景が変わり、訳が分からない尹儒だったが、とにかく己にとって凄まじい危機が襲いかかろうとしていることだけは瞬時に理解できた。 咄嗟に、勢いよく身を後方へと退ける。 そうして、ようやく自分の身に何が起ころうとしていたのか明確には分からないまでも、何となく理解したのだ。 それは尹儒の意志とは関係なしに、悪意ある何者かの意志によって、粉々となっている壺の破片を地に垂直になるように突き立て、鋭く光る破片の先端が目に突き刺さるという狂気じみた行為を強制的にさせられてしまっているということ。 さっきまでいた【まどろみの世界】で見た《大きな金魚》も《幻だったか分からない泣き虫雀》も、ここには見当たらない。 ここにいるのは、怒鳴りながらも目に涙を浮かべつつ此方へと走り寄ってくる切羽つまった状態の珀王と、寸手のところで目を潰されるといった凄まじい危機を回避できたため茫然自失となっている尹儒____。 それに、先程までは確かに粉々に割れていてそのうちの一つの破片が垂直で地に突き刺さっていたにも関わらず、瞬時にして大小さまざまな破片が生き物のように見る見るうちに一ヶ所に集まり、完全に修復したように見える奇妙な壺があるという事実だけだ。 しかしながら、少しして暗闇に目が慣れたためよくよく見てみると、その奇妙な壺は完全に修復したとは言い難いことに気付く。 最初、この暗闇の世界へ自分らの意志とは裏腹に連れて来られた時には普通の壺だった其れは、今や――お世辞にも普通とはいえない代物となっていた。 先程と違って上下逆さまとなっていて、本来ならば上にある筈の壺口は地へと付きそうな状態だ。しかも、その細い壺口からは普通に考えて出そうにないように思えるほど巨大に膨れた、まるで蛸にそっくりな頭部がにゅっと現れていて怯える此方を品定めするかのように見つめている。 その赤黒い頭部は蛸にそっくりとはいうものの、見る角度によっては――人間の、それも初老の男性の顔にも見えるものだから不気味としか言いようがない。 【か……ねぇ……か、ねぇぇ……っ____】 完全に上下が逆さまになり、血がのぼったかのように真っ赤になった蛸とも人間ともいえない奇怪な頭部が、力が抜けてしまい尻もちをついてじりじりと後方へと退く尹儒に向かって何事かを呟いた。 体が壺であるからか、その呟き声は辺り一帯に反響しているせいで【蛸とと人間ともとれない真っ逆さまという奇怪な頭部】という特徴に輪をかけて気味が悪い。 まるで、今よりもずっと幼い頃に母から聞いた童説話に出てきた【怪物】の呻き声のようだ。 もちろん、その時は【怪物】ではなく母が演技で自分を怖がらせようとしていたのだからあまり怖くはなかったのだけれど____。 【怪物】は、ひび割れた壺の隙間から、うねうねと気味悪く動く数十本もの触手を突き出すと、そのまま触手を自在に動かして、あまりの衝撃に言葉すらうまく話せないほど錯乱状態に陥っている尹儒の方へと凄まじい速さで迫ってくる。 少なくとも、好意的ではない【怪物】の行動を見て慌てて逃げようと、立ち上がろうとした尹儒だが完全に腰がぬけてしまっていて、どうしてもうまくいかない。 さっきからずっと、【怪物】の口の中から漂っている、魚が焼け焦げたかのような臭いが不快で堪らない。 とうとう、【怪物】は怯える尹儒の眼前にきてしまった。 【か……ねぇえ……か、ねぇ……に……な……る…………か、ねぇぇ………が………あり……ゃ……あ……や……り…………る____】 目の前にいるというのに、【怪物】が続ける言葉がうまく聞こえない。 すると____、 「う……っ___ぐっ…………!?」 今までは、何か意味の分からない言葉をぶつぶつと呟いて、せいぜい焦げ臭い息を吐きながら尹儒の眼前まで迫ってくるといった比較的危害が小さな行動をしていただけの【怪物】が遂に尹儒の命を脅かすような攻撃をしかけてきた。 四方八方から突き出す触手で、尹儒の小さな体を捕らえると、そのまま締め上げてきたのだ。 とはいえ、即座にして命を奪うような強烈な力で締め上げてくるわけではなく、じわりじわりと時間をかけて尹儒の命を脅かそうとしているのが何となく理解できた。 しかしながら、触手全体をびっしりと埋め尽くさん勢いで存在する【怪物】の吸盤は尹儒の体を捕らえた途端に、その形状を変えてゆく。 つい先程までは全てが穴が空いていて空洞となっていたにも関わらず、ぎょろりぎょろりと――まるで値踏みするかの如く《血走った人間の目玉》が出現し、尹儒はあまりの現実離れし過ぎた光景を目の当たりにして強烈な目眩を覚えて気絶してしまいそうになってしまうが何とか自我を保とうと努力した。 そんな尹儒を嘲笑うかのように、【怪物】の体の一部はまたしても形状を変えて、尹儒の身に直接危害を加えるべく攻撃をしかけてくる。 つい先程までは、触手を覆い尽くさんばかりに沢山の【人間の目玉】だった部分が瞬時にして引っ込んだかと思った直後、更に信じられないことが起こる。 今度は空洞部分から、ひゅっと――なめくじのようにぐねぐねと身を左右へくねらせるという気味悪い動きを行う【人間の舌が一斉に現れ、更には【怪物】の蛸のような数十本もの足が遂に尹儒の体に巻き付いていくと、然程時間を要せずに、その小さな身から自由を奪ってしまうのだった。

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