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第63話
しかし、その次の瞬間――異変は【怪物】によって強引に与えられる歪んだ快楽に溺れゆく尹儒が予想だにしない場所からもたらされることとなった。
とはいえ、珀王が姿を現した訳ではない。
正常な判断力を失いかけてしまっている尹儒が望んでいるように、【怪物】が突如として弱りきり、すんなりと退散するという愚かともいえる突拍子もない行為をした訳でもない。
何処からか、一匹の赤い蝶々がふわりふわりと――まるで天から舞い落ちる羽衣の如く微風に身を任せ飛んできて、少し離れた場所にある枯れて生気などまるでないような木の枝にとまったのだ。
そして、突如として現れた蝶はまるで水に浮かび遊泳する金魚の尾ひれのように、気紛れな動きでその遊女の紅の如く赤に染まる羽を、はためかせている。
正常な判断力を失いかけてしまっている尹儒の目にも、その紅色を纏う蝶の羽から舞い散る粉状のものが、風に乗って此方へとふわふわと漂ってきているのが分かる。
その粉状のものは風の流れに乗り続け、いつの間にやら灰色の分厚い雲間から微かに覗いていた月の光を浴びているせいで、ぼんやりと光を放ちながら、囚われの尹儒の皮膚だけではなく【怪物】の足(触手)の表面にも舞い落ちて付着していく。
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暫くの沈黙を破り、突如として響き渡る悲痛な叫び声____。
その凄まじい悲鳴は、素早く地を伝わり――ほんの一瞬とはいえ、汚い泥水溜まりを左右に揺らす程だ。
よくよく見てみると、【怪物】の蛸のような足にある人の目玉のような吸盤が完全に閉じている。
弱りきり、更に正常な判断を失いかけていた尹儒にとって幸運だったのは、ぐねぐねと蠢くのを繰り返し続け、蛸みたいに張り付いている人の目のような【怪物】の吸盤が全て一斉に閉じきった途端に自分を締め付けて逃すまいとしていた力が弱ったことだ。
完全に自由となった訳ではないものの、少なくとも手を動かすくらいならできることに気付いた尹儒は咄嗟に懐へと手を伸ばすと、大事にしまっていた、ある物を取り出した。
そして、おもむろに――その万華鏡を【怪物】の方へ向けたのだ。
正確に言うと、【怪物】の頭部へと向けた。
すると、万華鏡のレンズ部分から一筋の鋭い光が【怪物】の頭部を貫かんと放たれる。
それが功を奏したのか、先程よりも凄まじい悲鳴が辺りに響き渡ると、今度こそ【怪物】は完全に尹儒を締め付けておく力を失った。
「ひ____っ…………!?」
【怪物】の手中から解放されたのはいいものの、このまま地へと真っ逆さまに向かって落ちてゆけば、間違いなく尹儒は地中へ突如として現れた渦に飲み込まれ、愛する母と珀王とも再会できず、この奇妙な世界に飲み込まれ元の日々に二度と戻れなくなるという最悪の末路を辿ることとなってしまうと幼いながらにも直感的に理解した。
地中に突如として現れた渦の中から、数えきれない程の白い骨の手が、吸い込まれるようにして真っ逆さまに落ちてゆく尹儒の体を捕らえようと伸ばしている。
それは、まるで蟻地獄さながらの光景で尹儒は氷水を浴びたかのように身震いした。
どんどんと、渦の中へ向かって近づいてしまっているせいで、尹儒は唇を噛みしめながら固く目を閉じる。
それでも、王宮に暮らしていた以前のように泣かなかったのは、かつて珀王に【泣き虫】だと散々言われていたからだ。
本当は声を張り上げて泣き喚きたい状況だったが、目頭を涙で滲ませる程度まで何とか我慢できた。
そんな尹儒の努力が報われたのかは、分からない。
しかしながら、ふいにどこか近くの方から、りぃん、ちりんっ____と鈴の軽やかな音が聞こえてきたため尹儒は真っ逆さまに落ちていきつつも音が聞こえてきた方へと目を向けるのだった。
不思議なことに、そうすることで凄まじい恐怖感と不安が和らいだような気がした。
そして、あと数十秒程か経ってしまうと顔から地面に叩きつけられる――と、自覚した尹儒。
そんな時に訪れた異変____。
それは、遂に命を脅かしかねない強烈な危機感を覚えたせいで再び涙に濡れた目を閉じようとした直後、ぼんやりとした視界に入ってきたのは予想すらつかない意外な物が、つい先刻に鈴の音が聞こえてきた所に存在しているという、余りにも不可解な光景だった。
しかし、そんな不可解な光景はすぐに尹儒の頭から霧が晴れるかのように消えてしまう。
尹儒の体が泥と煤まみれの汚い地面に叩きつけられようとしていた、その直前――あと寸でのところで、勢いよく駆けつけてきた珀王の両手によって抱き上げられ、白い手に引き摺り込まれて永遠に閉じ込められてしまうという最悪な事態を予想していた尹儒は何とかそつならずに事なきを得たのだった。
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