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第64話

「こっちを向け……っ____この化け物爺が……。かつて数えきれないぐらいの女や童子を散々こき捨ててただけじゃ飽きたらず、無関係な尹儒にまで危害を加えようっていうんなら……卑怯なことしてねえで、こっちに来やがれってんだ!!」 数十本もある【蛸の化け物】の触手に表出している人間の目玉が、珀王の叫び声に合わせるかのように、ぎょろりと開くと、そのまま小刻みに震えて顔面蒼白の尹儒と、力強く支えながら威勢のよい珀王へと一斉に射ぬく。 明らかに【蛸の見た目をした気味の悪い化け物】は、尹儒と特に珀王に対して敵意を剥き出しにしたままだ。 辺りに響き渡る、本来ならば有り得ない獣のような咆哮と更には再び一斉に開ききり此方へと向けられる【触手の吸盤にぎょろりぎょろりと蠢く充血し血走る幾つもの目玉】が、凄まじいくらいの悪意を物語っている。 むしろ、先程よりもその悪意が強くなってしまっているような気がして、尹儒は不安げに珀王の方を見上げた。 しかしながら珀王の目には、最早――今のこの異様な状況に対する恐怖や不安といった負の感情は一切現れておらず、無言のまま震えている尹儒の幼い体を抱き寄せると、そのまま庇うような態勢をとりながら何故かは知らないが、少し離れた場所に立つ一本の木へと向かって駆けて行く。 そして、何を思ったのか珀王はいきなり木の幹を勢いよく蹴った。 王宮に暮らしていた頃から、王族である母や父から命じられた付き人の守子達に「外界である貧民街の童子のように木を蹴るなどと罰当たりなことをしてはいけない」と口を酸っぱく叱りつけられていたため、躊躇なく何も後悔していなさそうに清々しい表情を浮かべている珀王を見て尹儒は益々彼に対して尊敬の思いを抱いてしまう。 とはいえ、 ここが特殊な世界である王宮だろうがなかろうが、昔から神の魂が宿ると言い伝えられている《大樹》を蹴るということは、いずれにしろ罰当たりな行為には違いない。 (な、何か……良くないことが起きるんじゃ……狐のおにいちゃんは……何で、あんなことを____) 得もいわれぬ不安で胸が押し潰されそうになり、尹儒はさして意識せずとも、珀王の顔から再び木の方へと視線を向ける。 すると、その木から『りぃん』という鈴の音が聞こえてきたため一度は珀王の顔へと目線を向けていた尹儒だったが、再び訝しげな視線を木の方へと投げ掛ける。 そこには、小柄な童子らしき人物がひとり木の真下にぽつんと立っている――ように見えた。 「き……狐のおにいちゃん――あれ、あそこに立っているのは……だぁれ?」 「お前は、ぼんくらか……っ____もっと、よーく目を皿のようにして見てみろ。もし、それであそこにいるのが、人間の童子だと思うのなら、王宮に戻った後で徒花(あだばな)の奴らにでも目を見てもらえばいい」 「徒花って……ええっと、お医者さんのこと……だよね?前に、母上が教えてくれたよ。とっても、とっても頭のいい人達だって。そんな人達なら、尹儒のこのぼんやりした目も治してくれるかな?」 そんな無邪気な問いかけに、珀王は面食らってしまった。それというのも、【徒花】とは医師見習いの最下層の人々のことで、王宮に仕えている《守子》も、妃宮に仕えている《華子》にも与えられている身分だが【昇花】と呼ばれ所謂、医師として活躍する者達とは違って、落ちぶれた存在であり余程の例外がない限り医師として公務することはない。 珀王は、それを知っていて、わざと尹儒をからかったのだ。 とはいえ、珀王にしても【徒花】の者らを馬鹿にするつもりなど毛頭なく、単に純粋で他人の言葉を疑いようともしない尹儒に対しての意地悪として放った言葉だった。 どこまでも、素直な尹儒に少しばかり嫌気が差して珀王は、ため息をひとつついた。 そんな彼の気も知らない尹儒は、とりあえずもう一度、珀王が蹴りあげた木の方を目を見開きつつ観察してみることにした。 暗がりのせいで、最初は尹儒と同じ年頃の人間の童子に見えていたが、改めて目を皿のようにして注意深く見直してみると、それが間違っていたことに、ようやく気付く。 人間の童子のように見えていた、それは尹儒に向かって背を向けた状態となり表裏逆さまとなっている【招き猫】――かのように思えた。 しかしながら、尹儒はまたしても自分の考えが間違っていることに、割とすぐ気付くこととなる。 普通であれば、招き猫の裏側は中央に黒くて丸い斑模様があり、更にその下側にはしっぽがあるのだが、その不思議な【招き猫】には少し変わった部分があることに気付いたのだ。 丸い黒斑模様がある筈の場所には、太い赤の筆で《瓜子両》と彫られた金色の小判があり、さらに雪のように真っ白な後頭部には何故か不気味さや恐怖を感じない穏やかな一つ目がゆっくりと瞬きをしながら此方を見ている。 その、一つ目の周りを赤い蝶がひらり、ひらりと優雅な動きで舞っている。 そして、周囲を舞っていた赤い蝶が尹儒の元へ飛んできて肩に止まった後、再び木の方へと飛んでいき枝に停まってから少しすると、今度は木ではなく空から予想外の物が勢いよく降ってくるのだった。

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