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第65話
唐突に、空から降ってきたのは何十枚――いや、もしかしたら何百枚あろうかというほどに大量な小判だ。
それは、まるで天の恵みである雨粒のようだ。
一年を通して日照りが続く、滅多に雨が降らない尹儒の生まれ故郷といえる【月桜】にも、もしも、これだけ大量の雨粒が降るとするならば《貧民街》に暮らす者達の施しになるのではないかと尹儒よりも知性を備えており、尚且つ尹儒と比べて圧倒的に世間知らずではない珀王はふと思ってしまったが、いずれにせよ、さほど不自由なく育ってきた尹儒には彼らの気持ちなど分かりようがない。
だが、可能だったかもしれない生まれ故郷の幸せのことを考えている暇などないくらいに、どんどんと天から大量の小判が降ってきており、無防備な尹儒と珀王の頭の上にも容赦なく落ちてきて打ち付けてくる。
だが、二人にとって幸いなことがある。
蛸のような怪物の体にも【小判の雨】が天から打ち付けられ、更には、そのお陰で動きを一時的にとはいえ封じ込めることに成功しているのだ。
しかしながら、それも時間の問題であり何かしらの方法で次なる行動に移さなければいけないと気がついたのは尹儒よりも珀王が先だった。
そして、珀王はあることを思い出した。
というよりは、【新月・鬼灯花魁】と【女白・金魚草】から預かったものがあったことを突如として思い出したのだ。
『大切な人を守るために、これを君に預けておくとするよ。尹儒は……あの子は、まだ小さき童子で心配ばかり。見ていると肝を冷やすからね。それはともかくとして、あの子を頼んだよ……珀王____』
空気を読むことに長けているのか【新月・鬼灯花魁】は珀王と尹儒が離れた時を狙って、こっそりとそれを渡してくれた。
それは、効果を発揮するには時間に限りがあるものの、人間を食す妖人や【影ゆら】といった不気味な存在から身を守るためには大いに活躍する《桃色の羽衣》____。
童子ながら尹儒と比べて遥かに賢い珀王は、瞬時に頭の中で、これからどうすべきなのかを判断する。
(そうだ……あの、ふざけた色をした羽衣を被れば何とか、このふざけた状況をどうにかできるかもしれねえ……いや、あの気色わりい血怪雨とかいうのを防げたんだ――こっちも防げねえようじゃ困るんだよ……っ____よし、鬼灯と金魚草とかいう、あいつらも信用できるか分からねえが、信じてやるよ――尹儒が懐いてんのは気にくわねえけど……)
心の中で毒つきながらも、珀王は懐に丁寧にしまってあった羽衣を取り出そうと目線を斜め左下へと移す。
すると、つい先刻まではぴったりとくっつくようにして隣にいた尹儒の姿がないことに気付いた。
いや、正確に言うと尹儒の外見としての姿は見える。
しかしながら、尹儒の様子がおかしいのだ。
姿はそこにあるのに、心はどこかへと浮遊し、ふわふわと魂だけが漂っているかのような――そんな奇妙な感覚が安心しかけていた珀王へと襲いかかる。
尹儒の今の状態は、まさに心ここにあらずといった感じだ。
珀王が尹儒の両肩に手を置き、軽くだが何度か揺さぶってみても何の反応も示さずに目線すら此方へと向けないことに焦燥感を抱いた珀王は彼が何故このようになってしまったのか必死で辺りを観察し、更に自分の頭で考えてみた。
(俺が平気で……尹儒の奴がおかしくなった理由――この忌々しく降り続ける気色悪い雨のせいじゃない……とはいえ、あの気持ち悪い怪物のせいでもねえ……っ___ってことは、俺にはなくて……尹儒にあること……あるいは、物____)
そこで、はっと我にかえると珀王は無理やり尹儒の衣服をまさぐると、ある物を探し出し始める。
そして、少ししてから目的の物を見つけると珀王は無言のまま、弱りきって、うごうごと地を這いつくばっているだけの存在と化した【蛸のような怪物】へ向かって勢いよく、それを投げる。
尹儒は、そのまま糸が切れた人形のよつにがくりと脱力して気絶してしまったが、珀王だけは桃色の羽衣に包まれながら生前は同じ人間かつ郭の主人で守銭奴だったであろう【蛸の怪物】の最期を見送ったのだった。
雨が止み、まるで嘘だったかのように明るさを取り戻した【かつて悲しい歴史を辿った郭の世界】に、ようやく陽光が差し込んでくるのだった。
*
尹儒が、珀王の目を盗んでいつの間にか懐へと隠していたもの。
それは、珀王が割った《母との思い出のある万華鏡の欠片がついた壺の破片》だった。
ここにきても、尚――尹儒の心の中から珀という名の母の存在は消えぬのだと、珀王はため息をつきながらも、気絶して深めの眠りについている尹儒の頬へと唇を軽く押し付けて言葉にせずとも彼の回復を心から祈るばかりなのだった。
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