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第66話
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尹儒が目を覚ますと、心配そうに真っ先に覗き込んできたのは意外なことに珀王ではなかった。
意外なことに【新月・鬼灯花魁】がぽろぽろと大粒の涙をこぼしながら、無言で尹儒の顔を真っ直ぐに捉えた。
そのまま様々な奇怪ともいえる現実離れした体験をしたため混乱しきったせいで、今までに起きた事を理解できずに、呆然と視線を虚空へと向けて瞬きすらろくにせず見つめ続けている尹儒の体をそっと引き起こしてくれたのだ。
「____ごめん。でも、いきなり郭からいなくなって……心配していたのさ。君は、まだ幼い童子で……世間知らずなのだから、用心しないと駄目だ____そう、駄目なんだよ」
彼はかつて王宮で暮らしていた頃の母のように優しく尹儒の体を抱き締めたのだ。
鬼灯花魁が流した涙が、頬に当たって冷たい。割と出会ったばかりであるにも関わらず突如として強く抱き締められても、頬に彼の涙が当たってしまっても尹儒は悪い気はしない。
それはともかくとして、優しい彼へ尋ねたいことは、いくら世間知らずの童子である尹儒でも既にいくつか頭の中に浮かんでいる。
だが、そんな疑問など吹き飛んでしまうほどに【新月・鬼灯花魁】の春の真昼に浴びる日差しのように心地よいと感じる優しさに包まれてしまう。
以前にも、どこかで今のように【自然と心地よさを感じる優しさ】を誰かから与えられたような気がしてしまう。
しかしながら、そのおかげで、今まで起こった怪異からくる疲弊など忘れられたという良い部分もある。
それほど、尹儒にとっては彼から与えられる【優しさ】を心地よく感じたのだ。
何故、出会ったばかりである筈の彼に対して――ここまで強い安心感を抱くのかは、いくら頭の中で考えてみても分かりようがない。
それゆえに尹儒は、咄嗟に彼に対して――このように尋ねる。
「あ、あの____ここは……どこなのですか?」
「ああ、良かった。ここは逆ノ目郭の《岸ノ間》だよ。呂律もきちんと回っているし、ここに戻ってきた時よりも体温が暖かくなってきている。君たちが先刻までいた、あの世界――呪いの闇に支配された欠離世は……生者であり童子でもある君らにとって……さぞかし恐ろしい場所だったろうね?」
【新月・鬼灯花魁】から、そう言われ尹儒はようやく珀王が側にいないことに気が付いたた。慌てて体を起こして周囲を見渡してみても、今寝かされている、この《鷺ノ間》と呼ばれる寝所には姿が見当たらない。
「は、珀王は……っ____どこにいるのですか?」
【新月・鬼灯花魁】の表情が瞬時にして変わる。氷のように冷たく、矢のように鋭く此方へと向けられる目付き。
彼の変化に呼応するかのように、薄暗い闇を照らす行灯の二つの光が、突如としてゆらりゆらりと不気味に揺らめく。
そして、こう言うのだ____。
「もうここにはいないと言ったら、いったい……君はどうするのかな?」
「…………」
尹儒は、すぐには何も言えなかった。
しかしながら、はっと我にかえって左右に首を降る。
「は、珀王は……っ____絶対に僕を見捨てて何処かに行ったりなんかしないよ!!たって……だって珀王は、さっき僕を助けにきてくれた」
それ以降、【新月・鬼灯花魁】は何も言うことはなかった。
しかし、どことなく彼が此方に対して哀れむような目線を投げ掛けてきたため、暫くの間――静寂に包まれてしまう。
それから少しして、ふいに長らく包まれていた静寂を破る時が訪れる。
襖が、外側から素早く開かれたせいだ。
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