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第67話

「____だってさ……良かったね。尹儒の健康状態は肉体的にも精神的にも、すこぶる良好なそうだよ。更に言うのならば、脳にも異常はないみたいだ。これで君が私達を疑っていた誤解を解くことはできたかな……珀王?」 突如として勢いよく開け放たれた襖の外側には、息を切らし肩を上下に大きく震わせながら珀王が立っていた。 にこり、と――どこか愉快げに笑みを浮かべつつ【新月・鬼灯花魁】が振り返ってから珀王へ向かって菩薩さながら穏やかな様子で声をかける。 それがまた、まるで鈴を転がすような澄みきって耳障りの良い声だったため、思わず聞き惚れてしまう尹儒____。 しかしながら、それとはうってかわって珀王は鬼灯花魁のことが苦手なのためか僅かながらに、たじろぎ、尹儒の前では強気な様を浮かべてばかりの表情には戸惑いの色が伺える。 「それって、いったい……どういうこと?狐のおにいちゃんは、こんなに優しい鬼灯花魁さんのことが……嫌いなの?」 「そ、それは……っ____」 驚きの色を隠せずに不安げな表情を浮かべながら純粋にただ尋ねてくる尹儒から目を逸らすと、そのまま罰が悪そうに珀王は口ごもってしまう。 その直後に張りつめた沈黙を突如として引き裂く低い声が鬼灯花魁の隣から聞こえてきたため、尹儒はびくりと身を震わせつつ、おそるおそる目線をそちらへと向ける。 今は欠離世と呼ばれている禍々しい夜の世界は過ぎ去って、昼の世界の最中なので、僅かに開かれている格子戸の隙間から陽光が漏れており、尹儒達がいる寝所の一角を明るく照らしている。 世間知らずな尹儒には何の種が奏でるのかは分かりようがないのだが、鳥たちのさえずりが微かに此方へと聞こえてくる。 しかしながら、そんな爽やかな音さえも【女白・金魚草】の怒りを孕んだ低音の声色は拒絶しているのだと分かる。 嫌でも全身に鳥肌がたってしまうのを咄嗟に両腕で抑えることにより、尹儒はこれまでに感じたことのないような得たいの知れない恐怖を隠す。 「これだから、童子はいけ好かない。勝手に此方を悪者にしてきたかと思えば、もう片方の童子は己の頭で深く考えもせずに、田に突っ立っている案山子の如き愚かな様を見せつける。鬼灯花魁よ、やはり……改めて尋ねておきたい。こいつらの世話を引き受ける必要などあったのだろうか。俺は、そうは思わない」 【女白・金魚草】は――つまりは、こう言いたいのだ。 (この郭から出ていけ____) (ここはニンゲン如きお前らが共存していけるような場所ではない____) 「女白・金魚草____。私は、あなたを信用しているのです。だから、そんな悲しいことは言わないでおくれ。この童子達は現世から切り離され、哀れにもこの世に降り立っただけの、とてつもない不幸にさいなまれている小羊たちに過ぎないのだから…………」 「だ、だが……何もこいつらが考えなしで生意気だから気にくわないというだけではない。こいつらは既に、あの忌々しい客達と関わりつつある。俺は、それを懸念しているんだ。鬼灯花魁よ、俺には分かる。あの禍厄の呪いを浴びた奴らは……現世のニンゲンであるこいつらを喰い、尚且つ忌々しい呪いから逃れて元の矮小な影ゆらに戻ろうとしてる。つまり、必然的にお前にも危険が……っ…………」 そこまで話した時、何事かを言いかけていたにも関わらず、女白・金魚草は突如として口をつぐんでしまう。 本当ならば続けて尋ねたかったが、渋々ながら口を閉ざしたという感じで明らかに納得した訳ではないように見える。 (かやくの……のろい____) 尹儒は疲れ果てた頭で、ぼんやりと女白・金魚草の口からそのような言葉が放たれたのを聞いた。 すぐに金魚草の口から放たれた言葉の真意を深く尋ねるのを憚れてしまう。 己の真上から先刻と変わらずに覗き込んでくる【新月・鬼灯花魁】のどことなく寂しげで尚且つ憂鬱そうな表情を目にして世間知らずの童子ながらでも察せられたからだ。 だからこそ尹儒は、心の中にまるで何かを燃やした時に出る白煙の如きもやもやとしたものが渦巻いていて何ともいえない気持ちを抱きながらも、ただひたすらに黙るしかなかった。 一縷の望みをかけて、ちらりと女白・金魚草の方を遠慮がちに見つめてはみたものの、ぎろりと恐ろしい目で睨み付けられてしまい、一瞬とはいえ体が石になったかのように萎縮してしまう。 しかし、目線を僅かに逸らすと、それに負けじとばかりに珀王が此方のひやりとした手を固く握りながら女白・金魚草の方を同じように強く睨み付けてくれたため、思わず尹儒の顔が綻び、その後安堵の笑みを浮かばずにはいられなかった。

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