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第3話

「食感はクリームコロッケっぽいけど、確かにもんじゃの味! 紅ショウガが効いていて美味しい。いける」  注文した『もんころパン』にかぶりつき、倫は笑顔になった。  普通のコロッケパンを頬張りながら、稜而はうんうんと頷く。 「それはよかった。もんじゃって好き嫌いが分かれるから」 「僕、もんじゃ好きだよ。稜而は?」 「好きだよ」 「ね、今度食べに行こう?」 倫に顔を覗き込まれ、稜而はうんうんと頷いた。  パンのほかに持参した弁当を食べると、うららかな春の空気が瞼を押さえつけてくる。 「眠い……」 稜而が廊下側の壁に寄り掛かって大きな欠伸をする間に、後ろの席に座る倫は胸ポケットからカナルタイプのイヤフォンを引っ張り出した。 「倫はどんな音楽を聴くの?」 「クラシック。ルービンシュタインのショパン、聴く?」 イヤフォンの片方を差し出され、受け取った。 「うん……。クラシックは全然わからないけど」 Lの表記を見て左耳に嵌め込んでいると、倫は稜而を真っ直ぐに見る。 「わかる、わからないの基準って、何? 作曲家であれ、演奏家であれ、他者を完璧に理解しようとするなんてナンセンスじゃない? 自分が聴きたいように聴いて、眠かったら寝ればいい」 稜而は素直にうなずいた。倫は右耳にイヤフォンをはめ自分の机に突っ伏す。引きずられて、稜而も倫の机に右のこめかみを押しつけた。  学校の木の机は、なぜかいつも甘い匂いがする。  左耳にショパンの煌めく音を聴き、右耳に教室内の笑い声やざわめきを聴いて、机の甘い匂いを嗅ぎながら、すぐ目の前で眠っている倫の濃くて長い睫毛を見続けた。  丸い眼球を覆う瞼、その瞼の端に並ぶ睫毛は一直線ではなく、少し上下にばらけた位置から、薄い皮膚を貫くように生えていた。  先端を針のように細くした睫毛は、緩やかな弧を描き、稜而のほうを向いている。  規則正しい深い呼吸、机に押しつけられて歪む頬。倫の顔をつぶさに観察するうちに予鈴が鳴って、倫は突如大きな目を開けた。  稜而は肩を震わせて身を引き、左耳からイヤフォンが外れる。 「ルービンシュタインのショパン、どうだった?」 起き上がった倫の顔から目を背けつつ、稜而は首を捻った。 「どうって聴かれても。自分の中に何の基準もないから、言葉で表現しにくい」 「いいんじゃない、それで」 倫は笑って、イヤフォンを巻き取りながら話し続けた。 「言語化するって、美しい山の稜線を、登山者の都合で階段状に刻みつけるような、結構強引な行為だと思う。気に入ったなら見ればいい、聴けばいいだけのことだとじゃない?」 「なるほど」 稜而はうんうんと頷き、少し考えてから顔を上げた。 「そのアルバムのタイトルを教えてくれないかな?」 「いいよ。メアドを教えて」 倫の待受画面は、音楽室で見たことがある、ベートーヴェンの肖像画だった。

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