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第5話

「また明日」 先頭車両が大咲駅へ滑り込んだとき、稜而はそう言って、右手を軽く挙げた。 「うん、明日!」 挙げた手に、倫がパチンと手のひらを合わせ、そのまま稜而の手を握った。 「明日の朝、待ち合わせしようよ。七時半にあの自販機のところにいる」 速度を落とした車内から見えた清涼飲料水の自動販売機を指差して、稜而はぎこちなく頷く。 「う、うん。七時半に」 ホームに降り立ち、足を止めて振り返ると、倫が笑顔で手を振っていた。稜而も手を顔の高さへ上げ、少し考えてから小さく左右に振ると、倫はさらに笑顔を深め、そのまま動き出した電車に運ばれて見えなくなった。  稜而はそのまま立ち尽くし、倫の笑顔があった場所をぼんやりと見る。次の電車が入線してきて、窓ガラスに映る自分が、まだ手を上げたままだったことに気づいて、慌ててズボンのポケットに突っ込み、改札に向けて一段飛ばしで階段を下りた。 「朝、七、時、半、に。自、販、機、の…………、前っ!」 最後の三段を飛ばして下りて改札を抜け、そのまま自宅へ向けて一気に走る。 「ただいま帰りましたっ!」  階段を駆け上がり、二階の自室へ駆け込んで、机の上にリュックサックを投げると、そのままベッドへダイブした。  しばらく顔を埋め、それから顔を上げて学ランの袖に鼻をつけ、眉をひそめると立ち上がる。  脱いだ学ランをハンガーに掛け、埃を払うと消臭スプレーを噴きつけた。ズボンはズボンプレッサーで挟んだ。 「カッコ悪。線が二本できた……」 指先で擦ったが線は消えず、もう一度慎重にプレッサーに挟んで圧を掛けたら、間違った線の方が濃くなってしまった。 「さいっあく」  稜而は前髪を吹き上げると、胸に息を吸い込んだ。 「お祖母様ぁ!」  ズボンを片手に階下へ降りて行くと、白髪に緩やかなパーマをあて、すっきりとショートヘアに整えた祖母が、ブラウスにカーディガンを羽織り、膝下のセミタイトスカートに真っ白な前掛け姿でキッチンから出て来た。 「稜而さん、どうしたの?」 「ズボンプレッサーを使ったんだけど、ズボンの右側のここのところ、線が二本になっちゃったんだ。何か方法を知っていたら、教えて」 祖母は孫の依頼に機嫌よく頷いて、洗濯室へズボンを持っていく。  祖母は慣れた様子で、ズボンを霧吹きで湿らせてから、あて布をしてアイロンを掛け、正しい線に戻してくれた。 「クリーニングしたばかりなのに、もう線が消えてしまったの?」 「消えてはいないんだけど。……身だしなみをきちんとしようと思ったんだ。高校から入ってきた人たちは、新しい制服を着て、きちんとしているから」 祖母の目を見返すことはできず、きれいにアイロンがあてられたズボンを見ながら言葉を紡いだ。 「身だしなみに気を使うのはいいことね。そろそろお夕飯にするから、おズボンを掛けてらっしゃいな」 「はい。ズボンを直してくれてありがとう」  理事長の職を父親に譲って時間に余裕ができた祖父と、良妻賢母の道を頑なに貫く祖母と、三人で夕食を食べ、風呂を済ませて宿題をこなすあいだに父が帰ってくるのが、一日の大体の流れだ。 「コーヒー、飲むかい?」 父親が運んで来てくれる、マグカップ一杯のコーヒーを飲む時間が、親子の時間だ。 「高校生活はどんな感じ?」 長い脚をすらりと組んで穏やかに話す姿は、美男子とは言わないが、見栄えは悪くないと稜而は思う。 「倫っていう奴が入ってきた。出席番号が俺の後ろで、ちょっと仲良くなった。恵比須に住んでるから、明日の朝は大咲駅のホームで待ち合わせて学校に行く」 父親は稜而の言葉にうんうんと頷いた。 「倫くんは、まだわからないことが多いだろうから、稜而と一緒ならきっと心強いだろうね」 稜而は父親の言葉にうんうんと頷いた。

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