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第8話

 放課後、稜而は部活の友人と一緒に学校の最寄り駅から電車に乗ると、すぐに「あ」と口を開いた。 「忘れ物した」 「何、忘れたんだよ?」 友人からの問い掛けに、稜而は窓の外の流れる景色を見ながら答える。 「英プリ。朝テストの範囲、全部忘れた」 「オレ、持ってるよ。コンビニでコピる?」 稜而は窓の外を見たまま、小さく首を振る。 「いや。書き込みとかもあるし。やっぱり自分のプリントがいいから、取りに戻る。じゃあな」 一人だけ電車を降りて友人を見送ると、反対方向の電車には乗り換えず、そのまま改札口を出た。 「お待たせ」  稜而は右手を軽く挙げて、倫の前に駆け寄る。 「僕も着いたばっかり。パート練習に付き合ってたから。顧問に音楽室を追い出されて、遅くならないで済んだんだ」 「本当にグリークラブに入るの?」 稜而が倫を横目で見るのに、倫は真っ直ぐ稜而を見て笑った。 「うん。剣道部じゃ、ピアノは弾けないから」 「そう言われたら、返す言葉がない」 ふっと前髪を吹き上げる稜而に、倫はまた笑いかける。 「部活が違っても、一緒に帰ろう。ちゃんとエロ主将がいないところで待ってるから」 稜而はうんうんと頷いた。  二人は駅を出て、倫がプリントアウトしてきた地図を一緒に見ながら、見慣れない土地を歩く。  下町の商店街は、夕方になって活気づいていた。 「あ、コロッケ」 稜而が足を止め、倫は腕を引っ張る。 「先にドラッグストア! コロッケはあとで!」  商店街を半分ほど過ぎたところに、全国チェーンのドラッグストアが見慣れた看板を掲げていて、二人は足を踏み入れた。  ワックス、クリーム、ウォーター、ジェル、スプレー、リキッド、トニック。稜而は棚に並ぶ商品をざっと見渡し、それから目についたコピーを読んだ。 「『立ち上げて男を決める!』って、何かエロい。『ふんわりハード』? 矛盾しか感じないんだけど」 口の中でぶつぶつと呟いている隣で、倫は同じ容器の色違いを順番に手に取って、説明書きに目を通す。 「稜而はショートヘアだから、ハードワックスがいいと思うんだ。僕の個人的見解だけど」 「ショートヘアだから、ハードワックス。の、中間式がわかんない」 「んーとね、稜而は爽やか理系スポーツマン、あっさり和風って感じだから。前髪立ち上げて、がっつり顔を出したらいいと思う。地味だけど整った顔立ちだし」  倫は稜而の前髪を手のひらで押し上げて、ニッコリと笑った。 「稜而、鏡を見て。前髪を立ち上げて顔を出すと、いいと思わない?」 稜而は鏡の中の自分を見て、眉尻を下げた。 「オールバックって、ホテルマンみたいに決まりすぎてちょっと……」 「そう? ま、とりあえずハードなファイバー系のワックスを買おうよ。とりあえずこのワックスがあれば、何とかなるって!」 倫のあっけらかんとした笑顔に、稜而は納得しないまま頷いた。  見た目は七センチ四方のキューブ型の容器だが内側は丸く、白いクリームで満たされていた。 「これを両手にとって、手のひらに馴染ませて……。あ、僕のリュックサックの外ポケットに鏡が入ってるから、自分で持ってて。あと、コームちょうだい」 公園のベンチに座り、二つ折りの鏡を両手で持つと、背後に立った倫がコームを手に鏡越しにニッコリ笑う。 「最初からガッツリつけないで、様子を見ながらね。まず稜而の髪の分け目はどこかな……」 「分け目なんて考えたこともない」 「でもどこか自然に分かれるところが……、ないね」 洗いざらしの黒くて硬い髪はしゃりしゃりと音を立て、コームの隙間をこぼれていく。 「ざっくり七三で分けよう! 分けるうちに癖もついてくるから大丈夫!」 「安請け合いっぽい……」 「まあまあ、そう言わずに。美容師の息子に任せてみなって」 「あ、そうなんだ」  倫は「そうなんだよ」と笑って、熊手のように広げた手を稜而の髪へ差し込み、一息に後ろへ掻き上げる。 「息子なだけで美容師じゃないし、見様見真似だけどね」 髪がこぼれるより先に掻き上げるのを繰り返すうちに、額が露わになり、稜而の黒い瞳の位置を基準に髪が左右に分けられた。 「あんまりきっちりしないほうがいいよね。ホテルマンっぽいのは嫌なんだろ?」 「うん」 話す間に左右の髪はそれぞれ斜め後ろに向かって流されて、鏡に映る倫の表情は眼差しがキツく、強く口が結ばれて、真剣そのものだった。夕方の公園のベンチで、稜而は倫の手よりも顔ばかりを見ていた。 「はい、爽やか好青年のできあがりー!」 鏡の中の倫は華やかな笑顔になって、稜而は強い瞬きをした。 「あ、うん。ありがとう」  短い髪を七三に分けラフなオールバックにした稜而は、鏡を見て、自分が飛躍的に成長し、男らしくなったように感じて、勝手に緩む口許を懸命に引き締めながら胸を張った。

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