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第9話

 宿題をしていたら、コーヒーを持った父親が部屋に入って来た。 「お、かっこいい髪型をしてるね」 「うん。倫がやってくれたんだ。ハードワックスっていうので」 買ってきたキューブ型の容器を見せた。 「なるほど、容器もかっこいいね。見せてくれてありがとう」 「明日もこの髪型にしたいけど、コツってあるのかな? 父さんはどうしてるの?」 父親は自分の前髪を手のひらでふわりと触った。 「先にドライヤーで癖をつけると、やりやすいかもしれない」 「やってみる」 うんうんと頷いてコーヒーを飲む横顔を、父親は笑顔で見ていた。 「なに?」 「稜而が、どんどんかっこよくなっていくなと思った。容姿に気を使うのも成長のひとつで、親としては嬉しいものだなと思ったんだ」 「……母さんって、今、どこで何をしてるの?」 不意の質問に、父親はコーヒーで口を湿らせた。 「勘が鋭いな。今日、再婚すると連絡があった」 「俺のこと、覚えてるかな?」 「もちろんだよ」 「会える?」 「今、日本にはいないらしい。いずれは帰ってくるだろうけど」 差し出されたのは病院宛に送られたエアメールだった。 「なんで病院宛なの?」  差出人の住所はニューオーリンズと読み取れた。 「自宅宛では、お祖母様の気持ちが複雑になるかと思って、気を遣ってくれたんじゃないかな」 「見た瞬間に破り捨てる?」 言い当てた稜而に、父親は苦笑してコーヒーを飲んだ。 「母さんの字って、こんな字だったっけ?」 記憶のどこを辿っても思い出せない筆跡に目を走らせた。 「うん。あまり変っていないと思う」  『稜而に、いずれ会えたら』『もう高校生かな』『きっと頼もしく』そんな文言が並ぶのを見て、稜而は湧き上がる怒りと悲しみと思慕をコーヒーで飲み込んだ。 「たまに、手紙を書きたいな。返事は来るかな」 「そうだね。再婚して引っ越したりするだろうけど、おそらく。リターンアドレスは病院の理事長室にしておくといい」 稜而はうんうんと頷いて、コーヒーを飲み干した。  翌朝、やり直しの時間も見込んで早起きをして、シャワーを浴びて、髪を乾かした。  黒目の上、と教わった目安で七三に分け、風を送って髪を後ろへ流す。 「このワックスは、よく伸びるからほんの少し」 倫に教わった分量を両手から指の間にまで塗り広げ、手ぐしで調えると、昨日よりも髪は素直で、前髪は立ち上がり、稜而のすっきりと整った顔が迫力を伴って鏡に映った。  薄い便箋に簡単な言葉を綴ったエアメールを投函し、待ち合わせた倫には髪型を褒められて、上機嫌な一日だった。 「ずいぶん色気づいてるじゃねぇか」 主将に睨まれて、押忍と稜而は目を伏せる。 「エロいことばっかり考えていても、強くはなれねぇんだぞ」 「押忍」 手ぬぐいで頭を覆い隠し、面をかぶった。 「稽古つけてやる」 竹刀の先で顎をつっと持ち上げられて、稜而は傍らの竹刀を手に立ち上がった。  まだ温まっていない身体を急ごしらえでほぐし、主将の前に立つ。  竹刀を構えて立ち上がると、主将はいきなり振り込んできた。 「小手ーっ!」 「……っ!」 いつもなら外さない主将が、小手を外してきた。防具の薄いところへ竹刀が振り下ろされて、痛みに顔をゆがめた隙に、主将は竹刀を振り上げている。自分より高い身長の主将に大上段から面に向けて打ち下ろされたら、防具を着けていても脳天を直撃される痛みがある。  稜而は面を守ろうと竹刀を持った両手を挙げ、その分、脇が甘くなった。 「どぉりゃあああっ!」 主将は身体を引き、後ずさりながら、稜而の脇腹へ竹刀を打ち込んだ。胴が覆っていない脇の下の部分を強かに打たれる。  意図的に外されている。稜而は理解したが、動きを止めず、左足で床を蹴り、右足で主将に向かって踏み込んだ。 「あっ」 踏み込んだ右足の踵の上に、誰かに竹刀で打たれたような衝撃を感じた。主将は前に立っていて、後ろを振り返っても誰もいず、引きつけた左足に体重を掛けたが、バランスを保てずに倒れ込む。 「痛ってぇ……」  後輩達が駆け寄ってきて、同級生が保健室と職員室へ走った。 「ブチって音が聞こえた」 「凹んでるもんなぁ」 学校近くの整形外科で診察を受けて、足首がギプスで固定された。同級生と、同級生の話を聞いた倫が、稜而の制服とリュックを担いで来てくれて、そのまま顧問と一緒にタクシーで帰宅することになった。 「いいな、タクシー。僕も家が近いから、便乗させて!」 倫の明るいおねだりはあっさりと受け入れられて、稜而の自宅まで自分のリュックサックを膝の上に抱えながら、タクシーの助手席に座っていた。

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