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第10話

顧問が玄関先で祖父母に謝罪するあいだ、道着姿のまま、稜而はソファに座って足を挙上し、倫は傍らに立って、神妙にしていた。 「まぁ、アキレス腱断裂で、全治六ヶ月ですか」 「稜而さんや、その場に居合わせた生徒たちの話によると、稽古中に練習相手に向かって右足を強く踏み込んだ際に、受傷したようです。以後このようなことを繰り返さないよう、部活動の運営、指導にはこれまで以上に注意を払って参ります」 顧問の謝罪を遠くに聞きつつ、倫は稜而の耳元で囁いた。 「部活を休むあいだに、エロ主将は引退になるし、ちょうどいいよね」 稜而はうんうんと頷いた。 「でも、顧問には今回の経緯を一言、言っておきたい。やっぱり気持ちは収まらない。いいかな?」 「いいよ。稜而って真っ直ぐだね」 倫はニッコリ笑った。 「別に真っ直ぐじゃない。顧問に校内で話してもウヤムヤにされるけど、保護者の前なら、何かしらの対応を約束せざるを得ないだろ」 稜而は話が終わりかけたところへ、声を掛けた。 「先生、今回の件で聞いていただきたい話があります。ずっと立ったままじゃ疲れますし、俺も足が痛いので、奥の部屋で話してもいいですか」 一階の来客用リビングルームへ移動して、祖母が淹れてくれた紅茶で口を湿らせてから、稜而は口を開いた。 「今回、俺は主将に『稽古をつけてやる』と竹刀の先で顎を持ち上げられながら言われました。自分でもウォーミングアップが不十分だと理解していましたが、主将を待たせることは失礼にあたると思って、急いで準備をして、いきなり地稽古をつけていただきました」 稜而の言葉に、倫が口を挟む。 「地稽古って、いきなりしないの?」 「少なくともウチの部では、いろんな練習をしたあと、締め括りにやるよ」 稜而は紅茶を飲むと話し続けた。 「あれだけ実力のある主将が、小手を外してきました。それから引き抜き胴もです。しかも、かなり強く打たれました。普段の主将は強打者ではないです。正直、恐怖を感じました」 道着を脱いで、脇の下に近い部分と右腕のアザを見せた。 「昨日の朝、主将は電車の中で痴漢行為をしていて、その手を俺が捕まえたことへの報復と口封じではないかと思っています」 「え?」 一番身を乗り出したのは祖母だった。 「そんなの犯罪じゃありませんか」 「電車の中はすごく混んでいて、目視できませんでした。ただその指を掴んで、逃げようとするのを無理矢理引っ張ったら、主将の手でした。……これ、逃げようとして爪を立てられた跡です」 稜而は右手の甲にできた半月型の傷を見せた。 「どうして痴漢だとわかったんだ?」 顧問の言葉に、倫が毅然とした態度で発言した。 「触られたのが、僕だからです。僕のお尻を撫で回して、掴んで揉んで、お尻の溝に指を滑らせるような動きを何度もされました。手やカバンが偶然ぶつかっているとは思えない、意図的な動きでした。それで隣にいた稜而くんに助けを求めました」 「わかった。本人にしっかり話を聞く」 顧問は顎を引いてしっかり頷いたが、稜而は終わらせなかった。 「主将は、俺たちには否定しました。言い掛かりをつけるな、先輩に対して濡れ衣を着せるなと怒りました。倫が咄嗟に勘違いだと謝って、場を収めてくれましたが、今日、顧問もコーチもいないウォーミングアップの時間に俺を指名して、小手や胴を外して強く打ってきたことは、昨日のことと無関係には思えません。悪意を感じます」 「それで、渡辺くんの要求は?」 「主将から俺と倫を守ってください。主将に学校から接近禁止命令を出してください。痴漢行為からも、暴力行為からも、もちろん脅迫や嫌がらせや謝罪の強要からも守ってください。それが叶わなかった時点で、俺と倫は学校に対する信頼をなくし、弁護士と共に警察へ行きます」 顧問は鋭い目つきで話す稜而に圧倒されながら、しっかりと頷いた。 「この件は学校へ持って帰って、上役と話します」 「話す結果は、いつ頂けますか。対応策が十分に話し合われ、先生方のあいだに周知されて、安心して登校できる日までは、自分の身を守るために登校したくありません。でも、欠席が続いて授業を受けられない不利益を、被害者の自分たちがこうむるのも、不当です」 顧問は黙って頷いた。 「この件を生徒のあいだに広めることも、望んでいません。先輩も高校三年生で進路に関わる時期でしょうし、俺たちも始まったばかりの高校生活につまずくのは嫌です。何事もなかったように、生活させてください」 「すぐ、学校へ持ち帰って協議します。結果はご自宅へお電話を差し上げます」 顧問が帰ると、稜而は立ち上がった。 「整形外科に行ってくる。打撲と擦過傷の診断書をもらってくる」  保険証と診察券を持ち、立ち上がった稜而の隣を倫がついてきた。 「稜而って、こうやって戦うんだね」 「どういう意味?」 「主将をやっつけろ! みたいな単細胞じゃないの、すごいなって思った」 「性格悪いんだ。その場限り、泣いて謝るだけでは許したくない。それと、何より自分たちの身の安全は大切」 病院の整形外科で待合の椅子に座ると、稜而は習性のように天窓を見上げた。 「きれいな空。気持ちのいい天窓だね」 稜而はうんうんと頷いた。 「天窓が特徴の建築士さんなんだって。ほかにもいくつかの建物を設計したらしいけど、全部気持ちのいい天窓があるって」 「へえ。自分の個性が確立できるところまで到達してたんだね」 「残念ながら病気で亡くなったらしいけど。父さんが現役最後に担当した患者さんだったって。今はもう現場からは離れて経営に軸足を移してるから、決まった曜日に診察したりしないんだ」 「それって、医者として嬉しいことなの? 悲しいことなの?」 「わからない。聞いたこともなかったな……」 稜而は再び天窓を見上げた。

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