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第14話

 中学と高校、二つの校舎をつなぐ幅の狭い建物の奥に第二音楽室はある。  置かれている楽器は古ぼけたセミグランドピアノが一台だけで、黒板の黄色い五線もなく、窓の向こうは町工場に面していた。  稜而は町工場に面した窓の下の埃っぽい床に座って両足を投げ出し、微かに結露している壁に寄り掛かって、倫の姿を真横から見る。  倫は黒いピアノカバーの手前だけを折り返し、譜面台を立てて楽譜を置くと、鍵盤の蓋を持ち上げ、赤いフェルトのカバーを端に置いて、黒い椅子に浅く座った。  爪先でペダルを軽く踏んで、椅子の位置を直し、肩の上げ下ろしをしたり、両手を握ったり開いたりして温めてから、鍵盤の上に十本の指を乗せる。  息を吸って、吐くのと同時に鍵盤を押した。十本の指を素早くばらばらに動かし、跳ねるような短い音を次々に繰り出す。右手が和音を少し長く押さえ、跳ね上がりすぎる音楽を差し水のように落ち着かせる中、左手は重たい水を押し退けて湧き上がる気泡のように、重い音で軽やかなスウィングを奏でた。  しかし、奏でられる左右の音に調和はなく、耳障りな不協和音とテンポのずれが、焦燥感を掻き立てる。  稜而が眉をひそめ、首を傾げているあいだに、中途半端なところで放り出されるように曲は止まって、空気と鼓膜の震えも唐突に収まった。 「……ひょっとして、これで終わり?」 稜而が壁から背中を離して問い掛けると、倫はいたずらっぽい顔で笑いながら頷いた。 「これで終わり」 「クラシックなの? ひょっとしてジャズ?」 倫はまた頷いた。 「ジャンルはクラシック。ジャズの要素を取り入れてるけど。カプースチンっていう現代のロシア人作曲家の作品だよ。現代音楽って、不協和音と不安定さが特徴っていうか。とりあえず気持ち悪さをぶち込んどけば、それっぽい感じになるんだよ。こんな発言、カプースチンさんの耳に入ったら怒られるだろうけど。……でも、クールだろ?」 稜而は素直に頷いた。 「カッコイイよ」 「ピアノの発表会って、小さな女の子がお花のようなドレスを着て、宝石みたいにきらきらした曲を演奏するイメージだけどさ。僕まで一緒にきらきらした曲を弾くのもつまらないから、この曲を弾こうかなって思ってる」 「いいと思うよ」 「来月、よければ聴きに来て」 稜而はうんうんと頷いた。  倫は椅子から立ち上がり、稜而の隣の床に並んで座った。 「冷たくて気持ちいい」 壁に後頭部を押しつけ、そのまま首を傾けて稜而の肩に頭をのせた。  稜而は頬に触れる倫の髪の匂いを無意識に嗅ぎ、それから油の切れたロボットのようにぎこちなく、ゆっくりと倫の頭に向けて自分の頭を倒した。  倫の髪は意外に柔らかく、そして意外に頭部からも体温を感じると知った。特につむじの部分からは高い体温が発せられていて、稜而は紫外線に惹きつけられる蝶のように、そのつむじへ唇を押しつけていた。  唇の下で、倫が肩を竦め、小さく笑う。 「あ、ええと……」 我に返って稜而は身体を強ばらせた。 「ねぇ、稜而」 掠れた小さな声で呼ばれて目玉を動かすと、倫の黒い瞳とぶつかる。  なに、という返事は声にならず、呼吸すらも止まって、瞬きしないまま見つめあった。  瞳が乾き、乾く口の中の粘つく唾液を喉の奥へ押し流したとき、倫はそっと目を伏せて稜而の唇を見た。その視線に釣られて稜而も倫の唇を見る。 「………………っ!」 稜而は、十五年間の人生で一度も経験したことがない強い衝動に突き飛ばされて、倫の唇へ一直線に自分の唇を押しつけ、目を閉じた。  倫の手が稜而の背中に添えられ、稜而は制服のズボンの内側で強く反応する自分の雄を、手で荒っぽく掴んで押さえ込みながら、倫の唇へ自分の唇を押しつけ続けた。

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