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第15話
息が苦しい。でも鼻息なんて吹き掛けたくない。唇も離したくない。自分の唇で受け止める倫の唇は例えようがない柔らかさだ。キスってどうやって終わらせるんだろう……。
稜而の顔が苦悶で歪み始めたとき、ふっと唇が離れた。
「はあっ、息が苦しいっ」
倫は頬を赤くしながら笑った。
「息、止めてたの?」
仲間を見つけた気持ちで弾んだ声を出したが、倫はあっさり突き放した。
「止めてないよ。鼻で呼吸してたけど、あんまり鼻息が荒いと恥ずかしいなって思うから、いっぱいは呼吸できないじゃん?」
「あ、そう。なるほどね」
「稜而は呼吸してなかったでしょ? 死んじゃうよ?」
顔を覗き込まれて、紅潮している顔が更に熱くなった。
「次からはちゃんとするよ」
不貞腐れた稜而に、倫はまた笑顔を深める。
「じゃ、ちゃんとしよっか」
倫の言葉に稜而はうんうんと頷き、倫の顔が近づくと、また自然に息が止まった。
「稜而、呼吸は?」
「わ、わかってるっ」
ふてくされた唇に、ふわっと倫の唇が重なった。稜而は視野いっぱいに広がる倫の顔を見てから目を閉じた。
静かにゆっくり鼻呼吸をしながら、倫の唇の感触を唇で味わう。ホットミルクのように甘くて温かな感情が、腹の底からゆっくり湧き上がってきた。
稜而は薄目を開けて、それでもよくわからず手探りでそっと倫の肩を手で包んだ。倫の手も、探るような動きでそっと、稜而の胸に当てられた。
再び目を閉じて、キスの心地よさを理解し始めたとき、無情にも黒板の上の四角いスピーカーからチャイムの音が流れ、倫の唇がゆっくり離れていく。稜而はゆっくり目を開けた。
「また今度。さ、教室に行こう」
頬を少し赤らめながら差し出された倫の手を借りて立ち上がり、稜而がリュックサックを背負って松葉杖を左右の手に持つ間に、倫はグランドピアノの蓋を閉じて、二人は教室へ向かった。
「春はあけぼの、ようよう白くなりゆく。やまぎわ……」
クラス全員で音読するのに合わせて自分も口を動かしながら、ぱらぱらと古文の教科書を繰っていたとき、『人倫 』という語を見つけた。徒然草のページだった。
稜而は目玉だけを動かして周囲を確認し、改めて教科書へ目を戻す。ページの端のほうにあるにもかかわらず、『倫』という文字だけが濃くはっきりと目に飛び込んできた。まるで、ほかの文字は一回り小さく、しかも薄い灰色で印字されているのではないかと思うほどの違いだった。
「人倫とは人類。『倫』という字は、仲間、輩 の意……」
教科書の注釈を読み、それから恐る恐る『倫』の文字へ指先を近付けた。もうすぐ触れる、無意識にかさついた唇を舌先で舐めた。
そのとき、不意に背中を叩かれた。
「うわああああっ!」
稜而は大声をあげて教科書を放り出し、クラス中の注目を集めた。早鐘を打つ心臓を学ランの上から押さえた。
「ごめん! 虫を払い落とそうと思って。そんなに驚くと思わなかった」
倫が焦ったような声で弁解し、クラスの中には笑いが起こった。
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