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第17話
倫のピアノの発表会は、ちょうど二人の家の中間にあるカトリック教会の地下の音楽ホールで行われる。
生徒数が多いから三部制で、倫は大人と一緒に夕方からの第三部に出演すると言われ、珊瑚色に光る夕空の下を松葉杖で歩いた。
受付で持参したブーケを預け、お姫様のようなドレスを着た子どもたちが元気いっぱいに走り回る中を、ひやひやしながら松葉杖で歩いて行くと、客席のあいだに立つ倫がいち早く気づいて手を挙げる。
「カッコイイ」
倫はスカイグレーのスリーピーススーツに黒のワイシャツとネクタイを合わせ、グロスの強い整髪料で髪を後ろに流して姿勢よく立っていた。
「来てくれてありがとう。こちらが僕の両親と妹」
堂々と紹介された両親は稜而に歓迎の笑顔を向け、紺色のドレスを着た中学生の妹は白いハンカチを両手で握りしめたまま、頷くような素っ気ない挨拶をした。
「ごめんね、緊張してるみたいなの。お兄ちゃんは全然平気なのにね」
母親が取りなすように話すのに、稜而はうんうんと頷く。
「一年間の練習の成果を短い時間の中で発揮するんだから、緊張して当然だと思います。いつもほどよく肩の力が抜けている倫のほうが不思議です」
「なるようにしかならないのに、緊張したって無駄だもん」
倫は屈託なく笑い、不機嫌な妹に睨まれ、その妹の頬を両手で挟んで捏ねたので払いのけられた。
「お兄ぃ、超ウザイ!」
「えー、緊張をほぐしてあげようと思っただけなのにぃ」
「倫、ちょっかいを出さないの」
母親に窘められ、少し唇を尖らせてから、倫は今度は稜而の手を引っ張った。
「ちょっと来て」
稜而が連れて行かれたのは教会の裏にある今にも崩れそうな藤棚の下だった。
自分たちの髪に触れるほど大きく低く藤の花が下がっている下で、倫は稜而の背に腕を回し、肩に額を押しつけてきた。
「倫?」
「安らぐ……緊張がほぐれるよ。受験で全然練習できない一年間だったけど、言い訳しないで頑張って演奏するから聴いてて」
「うん。緊張してたの?」
稜而は松葉杖から手を離し、おずおずと倫の背中へ手を回した。
「本当はね。妹に馬鹿にされたくないから我慢してた」
倫が肩に額を押しつけたまま稜而のほうを向き、互いの唇の距離は僅か三センチ、互いの唇を見つめ、稜而が微かに頭を動かしただけで、二人の唇は重なった。
自分の身体に立てかけておいた松葉杖は倒れたが、構わず倫の唇の柔らかさと甘さを、稜而はしっかり味わった。
「頑張る」
ゆっくり唇を離し、そう言って笑った倫は、アナウンスされると堂々ピアノの前に立った。一呼吸のあいだ会場を見回してから深く頭を下げ、ピアノに向かって座り、ペダルや鍵盤との距離をはかって身体をセットする。
稜而は暗く沈んだ客席で、ライトに照らされる倫の姿を一方的に注視した。日常生活でこんなに堂々と倫の姿を見つめるチャンスはない
ピアノに向かって少し背を丸め、長い指を細かく動かす。鍵盤を押してハンマーが弦を叩く瞬間が最大で音は小さくなる一方なはずなのに、ペダルの操作か、鍵盤を押す強さに工夫があるのか、音色は膨らみ豊かに響いて、稜而は音楽に心地良く包まれた。
「いい演奏だった。発表会おめでとう」
稜而がバルーンブーケを手渡すと、倫は八分音符の形をした銀色の風船や楽譜をプリントした丸い風船、カラフルなポップキャンディーを面白がって笑顔で受け取る。
「ありがとう! 嬉しい」
喜んでくれる倫の姿を見るだけで、プレゼント選びに悩んだ時間が報われ、稜而も鼻の頭に皺を寄せて笑った。
倫の家族とレストランで食事を共にして、車で送り届けてもらい、ベッドに倒れ込んで息を吐いた。
舞台袖からピアノに向かって真っ直ぐに歩く姿、鍵盤に向かって演奏する横顔、弾き終えて安堵した笑顔、レストランでの品のいい食事姿、そして発表会前の藤棚の下でのキス。
「ダメだ俺。やっぱり倫のことが……す、すすす」
たった二文字の言葉の形に唇を動かすことすらできず、自分の顔が熱くなるのを感じて、頭の上まで布団をかぶった。
「独り言でも言えないのに、倫に……言いたい……から言うのかな? 言うメリットとデメリットは何? 言って、どうするんだろう? 言うと、どうなるんだろう?」
稜而は寝袋のように布団にくるまったまま、左右にローリングしながら思案した。
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