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第23話
唇を離すと、二人は互いの目を見ながら頬を染めて小さく笑う。
「僕たち、キスばっかりしてるね」
「嫌だった?」
「ううん。もっとしたいくらい」
稜而は唇を突き出しかけて、周囲を見た。
中年女性のグループが和やかに話しながら歩いてくる。花柄のシフォンのスカーフが初夏の風を孕んで、おしゃべりに同調するかのように揺れていた。
「せっかく芸術に親しんでいるところに、キスシーンを見せるのは申し訳ないな」
短い前髪をふっと吹き上げ、稜而は倫の顔を見た。
「ウチに来る?」
「うん、行く!」
弾みをつけてベンチから立ち上がり、コインロッカーから教科書とノートを回収すると、ほんの一時間半前に来た道を逆戻りして、稜而の自宅へ行った。
「ああ、帰ってきたわ! 稜而さん、上野駅でお腹を痛くしたんですって? 先生から電話があったのよ」
靴を脱ぐより先に、かかとの高いスリッパを鳴らしながら祖母が出てきて、稜而は一瞬言葉に詰まった。隣で倫が一歩前に進み出る。
「申し訳ありません。僕が作ったたらこのおにぎりが原因だと思います。上野駅のトイレにしばらくこもって、落ち着いたので帰って来ました。体力を消耗したので、少し休ませてください」
倫は直角に頭を下げると、顔を上げるなり腹へ手を当てた。
「すみません、お手洗いを貸してください」
「あらあら、大変! こちらをお使いになって」
ドアの向こうへ祖母と倫が消えて行くのと入れ替わりに、スーツ姿の父親が出てきた。
「おかえり。もう顔色はよさそうだね」
「父さん、そのために帰ってきたの?」
「そう、と言えれば立派な父親なんだけど、名刺入れを忘れたんだ。脱水症状は? 経口補水で間に合わないようなら、早めに病院へおいで」
話ながら稜而の全身状態を観察し、両手で顔を包むようにして触診をする。父親の大きな手のぬくもりに、照れくささより安堵が勝った。
「ううん。ただ、美術館でぼーっとしてきただけだから。食中毒は本当のことじゃない」
嘘を隠し通せない自分は、まだまだ子どもだ。本当のことを喋って倫を裏切っている自分と、父親に余計な心配を掛けず正直であろうとする自分との間で小さく揺れた。
「そうか。たまにはそういう経験もいいね。美術館では何を観てきたの?」
父親はさらりと受け流した。背中に手が当てられて、稜而はつるつると喋った。
「あんまり興味が湧かなくて。倫は楽しそうにしてたから、倫の顔しか覚えてない」
稜而の返事に父親は笑った。
「楽しいデートだったね」
父親はまた笑ってから、素早く周囲を見回して、ジャケットの内ポケットから封筒を取り出した。AIR MAILと朱書きされ、病院の理事長室気付、渡辺稜而様と書かれていた。
「倫さんのお宅は、日中どなたもいらっしゃらないんですって。客間のベッドで寝かせてあげたほうがいいかしら」
独り言とも相談ともつかない様子で話しながら祖母が玄関へ戻ってきて、稜而は慌てて学ランのポケットへエアメールを突っ込んだ。
「倫は、俺のベッドに寝かせるよ。客間じゃかえって気を使うと思うから」
トイレから出てきた倫を伴って自室へ行くと、倫は勢いよく稜而のチェスターフィールドソファーへダイブした。
「いったーい、頭打った!」
後頭部を押さえながら、ゲラゲラと笑っている。稜而はその頭を持ち上げてソファに座り、倫に膝枕をしてやりながら、エアメールの封を切った。
手紙の中の母親は、稜而の記憶と違って落ち着いていた。父親と口論し、祖母と短く鋭い言葉を投げつけ合い、叩き壊すようにピアノを弾き、がなるように歌い、物を投げて泣いている姿ではなかった。
「離婚って、悪いことばっかりじゃないんだ」
癖の強い跳ね上がるような字だが、手紙をありがとう、うれしいです。高校生活は楽しそうですね。稜而が幼稚園に通っていた頃を思い出しますなどと、丁寧に書かれていた。
『Harumi WATANABE・JAZZ LIVE』
都内のライブハウスの名前と地図が印刷されたフライヤーには、マイクに向かって歌うソバージュヘアの女性の横顔が写っていた。倫はスポットライトの逆光の中で力強く輝いている横顔を手にして、稜而の横顔に並べる。
「似てる」
「そう?」
チケットは二枚入っていた。
「倫、一緒に行く?」
「いいの、母親と再会なんていう大事な場面に、僕が一緒でも?」
「だから一緒にいてほしいんだ」
稜而の膝の上から上体を起こすと、倫は稜而の唇にキスをした。
「僕たち、キスばっかりしてるね」
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