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第24話
「梅雨入りしたとみられる、なんて主観的な宣言がまかり通る。変な話だ」
稜而はチェスターフィールドソファに腰掛け、倫に髪を直してもらいながら、唇を尖らせた。
「いかにも人間らしくて、僕は好きだけどな。気象なんて人間の手ではどうしようもないもん。ただ観察して発表するなんて、素直な心の持ち主にしかできない仕事だと思う」
「俺が素直じゃないみたいだ」
細身のブラックジーンズを穿いて目の前に立つ倫の腰へ視線を這わせる。その内側が実際にどうなっているのかは、まだ見たことがない。ただ手に浮ぶ汗を自分のジーンズの太腿で拭いた。
「素直じゃないんじゃない? 目は素直だけどね」
倫は自分のジーンズのファスナーの辺りを凝視していた稜而の顔をのぞき込み、稜而は目を逸らして、整えてもらった髪へ手を当てた。
そのまま傍らのコットンジャケットへ手を伸ばしてポケットを探り、折りたたんでいたフライヤーを確認する。倫が似ているという母親の横顔を、倫も一緒になってのぞき込んだ。
「一四時開演。開場は三〇分前。休日ダイヤだし、余裕を持ってそろそろ行こうか」
頬が触れ合う近さで問われて、稜而は倫の唇を見ながらそっと自分の唇を近付けた。倫も稜而に向けて唇を近付け、二人の唇は触れ合って、押しつけあい、軽く離してまた押しつけあった。
「気持ちいい……」
倫の呟きに、稜而は強い衝動が湧きあがるのを感じ、その身体を抱き寄せた。倫の両手はすぐ稜而の首に絡みつき、キスに夢中になるまで時間は掛からなかった。
何度も唇を押しつけ、顔の角度を変え、稜而は意を決してそっと舌を差し出した。倫の唇を割り、前歯に触れたとき、突然ドアがノックされた。
「稜而さん、お友達の発表会へ持って行くお花はどうするの?」
祖母の声に、稜而は倫を突き飛ばして立ち上がり、足下に落ちていた母親のジャズライブのフライヤーを蹴って転んで尻餅をついた。
「あらあら、どうしたの」
ドアを開けて入ってきた祖母は、吹っ飛んだ稜而のスリッパとその下敷きになっているフライヤーを見た。
「まあ、発表会のお知らせ? ジャズの発表会だと、さすがにお知らせも大人びたデザインなのね」
稜而は尻餅をついたまま、倫はソファの上で突き飛ばされた姿勢のまま、動くことも、物を言うこともできずに、祖母の行動を見守った。
上品な紺色のセミタイトスカートを穿いた膝を床につき、柔らかな紫陽花色のブラウスを着た手を伸ばす。
「おばあ様……」
稜而の口は動いたが、口内が乾いていて声にはならなかった。
「ハルミ、ワタナベ。ハルミワタナベ。渡辺春海? これ、どういうことっ!」
祖母の顔は一瞬にして赤くなり、右手でフライヤーを握りしめたまま、ふらりと左側へ倒れた。
「え?」
不思議な出来事に声を上げたのは、稜而と倫だけでなく、祖母も同じだった。
「おばあ様?」
稜而の問いかけに、祖母はかすれた声を出した。
「目が、まわる、わ……」
祖母の身体を飛び越して正面から顔を見て、稜而は出そうになる声を呑みこんだ。祖母の右目はしっかり稜而を見ていたが、左のまぶたはだらりと下がり、引き結ばれた右半分の口には不釣り合いに、左の口の端から透明な唾液が垂れている。ここまで左右非対称な人間の顔を見るのは初めてだった。
「倫、お父様を呼んできて。一階に下りて呼べば、聞こえるはず」
ソファを乗り越えて、倫が部屋を出て行った。
「今、お父様が来るから。仰向けに寝たほうがいいかな」
左腕がねじれたまま身体の下敷きになっていて痛そうだった。祖母の身体と床の間に手を差し入れ、上体を起こしたとき、祖母は強い光が宿る右目だけで稜而を見て言った。
「いっては、だめ」
不明瞭に発せられた言葉に、稜而は下唇を噛んだ。
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