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第26話

 稜而にくすぐられて、倫は家族兼用のサンダルをばたつかせて笑い転げる。 「くすぐっ……、ぎゃー! やーめーでー! 犯ざれるー!」 すべての言葉に濁点がついて聞こえるほど笑っていて、稜而は一緒になって笑いながら、指先を倫の脇腹と肘の間に挟まれてもなお指先を動かし続けた。 「わはは。犯してやる! ……え?」 稜而は指を止めて真顔になった。目尻に涙を溜めて笑っていた倫が、笑みを顔に残したまま稜而を見上げる。 「ふふっ。犯してみる?」  倫は床に仰向けになったまま首を傾げ、床に髪を広げた。玄関ドアのステンドグラスを通った光が倫の白い首筋を照らし、稜而は強くまばたきをした。 「え、あ。犯す? それはちょっと。そういうのは合意の上でするべきだと思うし、無理矢理しても罪悪感しか残らないと思う。大事なことだから、犯すなんてやり方じゃなくて、もっと慎重に行動するべきじゃないかなって……」 倫は稜而の話を聞きながら腹筋をひくつかせ、堪えきれずに噴き出した。笑いはすぐに大きくなり、目尻に溜めていた涙は耳まで流れる。 「なんで笑うんだよ」  稜而は唇を突き出し、それでも笑い続ける倫の姿を眺めて、短い前髪を吹き上げた。 「俺、そんなに変なことを言ったかな」 倫は床に寝転がったまま頭を大きく左右に振り、ひーひーと息継ぎしながら笑い続ける。 「変な、ことを、言った、のは、……僕っ! ひーっ! ぎゃははははは!」 しばらくの間、家族兼用のサンダルの底を三和土に打ちつけながら笑っていたが、不意に笑いを収めて真顔になると、上体を起こして稜而の顔に迫った。 「ねえ。僕とセックスしようよ」  その声は低く甘く稜而の下腹部へ響き、稜而は飛び上がる心臓を左手で、跳ね上がる欲望を右手で押さえつけた。 「せ、せ、せせせ。せ……っ、せっ」 「セックス。キスだけじゃ足りなくない? 僕はそろそろ限界なんだけど。稜而とのセックスを妄想しながら一人でオナニーするだけじゃなくて、実際に稜而と一緒にしたい」 倫はじわじわと前のめりに迫ってきて、稜而は少しずつ仰け反り、床に肘をつき、短い後ろ髪が触れ、ついに後頭部が床面にぶつかる。  倫の顔はなおも迫り、その黒髪の先が稜而の頬に触れたとき、玄関ドアのハンドルが動き、ガチャリと音を立てた。  稜而は勢いよく上体を起こし、倫は頭突きを食らって床へ倒れる。 「お、おじい様! おかえりなさい」 父親の三〇年後のような姿をした祖父は、玄関に座る稜而と、その隣で額を押さえて床に転がっている倫を見た。 「何をしているんだ?」 「何って……。あ、そうだ、おばあ様! おばあ様が倒れて、父さんが付き添って病院へ。命に関わることはないと思うけど、父さんは専門じゃないから、後遺症はわからないって。救急車で病院へ行ってる」 えっ、と小さく呟いた祖父と、追加説明の言葉を探す稜而が互いに黙ったとき、電話の音が響いた。  稜而は玄関ホールのカフェテーブルの上にある受話器をとって、外線ボタンを押した。 「はい。渡辺でございます」 「稜而かな? 父さんだけど。今、おばあ様は専門の先生に診察をして頂いている。検査結果が出揃ったら、説明があるんだが、おじい様は町会の会合に出掛けているんだ。町会会館に行って、すぐ病院へ来るように伝えてくれないかな」 「おじい様、今、帰ってきた」 「ああ、そう。電話を代わってくれる?」 祖父は父親と電話で話すと、すぐに家を出て行った。 「稜而、おじい様のことを忘れてただろ?」 倫に顔を覗き込まれて、苦笑する。 「すっかり忘れてた。酷いよな。おばあ様の夫なのに。……仲がいいかどうかは、よく分からないけど」 「なんで?」 「親同士が決めた結婚なんだって。ひいおじいさんはいい人だったけど、お金の計算はあまり上手くなくて、村の人が困ってるとお金を受け取らずに診察したり、薬をタダであげたりしてたらしいんだ。それで病院の経営が苦しかったときにおじい様が結婚して、おばあ様のお父さんから金銭面の支援をしてもらったんだってさ」 「政略結婚かぁ。どちらの意にも染まらない結婚でも、ここまで連れ添えるんだね。情が湧くのかなぁ」 「どうなんだろう。子だくさんで、父さんは五人兄妹の長男だけど。好きでない人と、そんなに何回も繰り返しセックスできるのかな」 「お妾さんがいて、その人の子どもも含まれてるとか?」 「それは聞いたことない。知らないだけかなぁ? でも、兄妹は仲がいいし、顔も何となく似てるよ」 二人は話しながら内階段を上がり、父親の書斎の前を通り過ぎて、北東の角にある子ども部屋のドアを開けた。  そこには稜而のスリッパと、母親のジャズライブのフライヤーが散っていた。 「本当に行かなくていいの? 今から行ってもアンコールくらい聴けると思うし、楽屋で挨拶もできるんじゃない?」 倫はフライヤーを拾い上げたが、稜而は受け取ると階段を回り込んで北西の角にある納戸へ行った。  正月にしか使わないボードゲームの箱や、クリスマスツリーのオーナメントが入った袋よりずっと奥まで歩いて行くと、うっすら埃が積もるギターケースが置かれていた。 「ギターを弾くの?」 倫の問いかけに稜而は何も言わず、ただ蓋を開けて楽譜が入っているポケットにフライヤーを押し込むと、また蓋を閉めて元の場所に置き、納戸を出た。 「母親を完全に忘れるのも、捨てるのも、難しい。思い出したいときもあるし。思い出しても、いいことなんて一つもないことだって、知ってるんだけど。それでも」 稜而は部屋へ戻りながら、倫に聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟き、子ども部屋のドアノブに手を掛けると溜め息をついてから言った。 「俺は、恋も愛も結婚も、何一つわかってない」

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