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第28話

 こめかみにキスを繰り返し、顔を上げた倫の頬にもキスをした。 「倫、顔が真っ赤だよ。熱い」 「うるさい」  稜而は緩んだ笑みを浮かべて倫の頭を抱き締めた。 「倫、大好き」 倫の腕がそっと自分の背中に回されて、稜而はますます頬を緩ませた。  すべてが一段落し、父親が淹れたてのコーヒーを持って稜而の部屋へやって来たのは、デリバリーのピザを皿に載せ替える人がいないテーブルで、倫と祖父を含めた男四人で手掴みでピザを頬張り、倫が帰宅したあとだった。 「参ったね。家政婦さんもおばあ様もいないと、わからないことばかりだ」 父親はチェスターフィールドソファに腰掛け、長い足を組んで、苦笑しながらマグカップに口をつける。 「ウチの男たちは、家の中の半分も使わずに過ごしてるってことはわかったね。食洗機の洗剤を入れる場所は、結局わからなかったし」 稜而も並んでチェスターフィールドソファに腰掛け、父親と同じ顔で苦笑して、苦味の強いダークチョコレートのような香りを口に含んだ。 「ライブに行けなかったのは、残念だったね」 「でも、俺は母さんに捨てられてるから。それをのこのこ会いに行くのも違う気がするし、これでよかったと思う」 稜而の言葉に、父親は過敏に反応した。 「それは違う。母さんには母さんの事情があったんだ。稜而を捨てたかった訳じゃない」 真剣に訂正する父親の言葉に、稜而はうんうんと頷いた。 「知ってるよ。精神科に入院したんだよね。退院したあとも調子はよくなくて、父さんの支払った慰謝料で生活してた」 ダークブラウンの水面を見ながら話すと、父親は片眉だけを上げて稜而を見た。 「なぜそんなことを知っているんだ?」 「母さんに会いに行ったからだよ。小学五年生のとき。父さんの手帳に住所が書いてあるのを見て、地図で調べて、会いに行ったんだ」 突然の稜而の告白に、父親は目を見開いたが何も言わず静かに聞き入った。 「母さんは七王子の叔父さんの病院に入院した、面会はしばらくできない、そう言われてしばらくして、離婚することになったって聞いて。七王子の病院へ面会できるかを電話で訊いたら、入院されていませんって。父さんの手帳を見たら、『春海』って名前と七王子の病院近くの住所が書いてあって、土曜日の塾に行かないで、七王子へ行ったんだ」 塾を無断欠席することは勇気が必要だったし、塾の道具を背負っていながら、全く違う方向へ一人で電車に乗る小学生を、誰かが見咎めるのではないかと周りの乗客の反応を伺いながらの移動だった。 「母さんは古いアパートに住んでて、部屋は物がないのに散らかっていて、布団は敷きっぱなしで、窓際に炬燵があった。そこで冷たい麦茶を飲んだ。母さんは寝起きみたいな姿のままで、俺の頭を撫でてくれた。『来てくれて嬉しいけど、こんな状況なの。一緒には暮らせないのよ。おウチに帰りなさい』って」 頭を撫でられたときの、母の細く乾いた手の感触を稜而は思い出していた。 「そのときの母さんは、話すスピードもゆっくりで、会話の途中で怠そうに横になって寝たり、頓服薬を飲んだり、目を閉じてゆっくり深呼吸をしたりしながら、会話をした」 風呂に入る気力や体力もないのか、母親の髪が少しベタついて光っていたことも思い出した。 「話しながら、自分の意思とは関係ない感じでずっと目から涙がこぼれていて、演技でもなんでもなく、本当に体調が悪いんだと思ったし、その原因が俺にもある、俺の顔を見て体調が悪くなって頓服薬を飲んだ、というのも何となくわかったから、麦茶を飲み終わったコップをキッチンに運んだ」 炬燵以外の暖房はなく、スリッパもなくて、靴下一枚の足は冷たくなった。 「母さんは『後でやるから』って言ったけど、置きっぱなしになっていたほかの食器も一緒に洗って、干からびてる食器カゴに伏せて、それから帰るって言ったんだ」 シンクに置きっぱなしになっていた清涼飲料水のノベルティのグラスの中の水は淀み、表面には白い半透明の膜が張っていた様子も思い出す。 「母さんは『来てくれてありがとう』そう言って、キッチンの隣にある玄関まで、精一杯の笑顔を作って見送ってくれた。でもドアが閉まってすぐに鍵が掛かって、ドアチェーンも掛かる音がして、迷惑だったんだなって思った。母さんは、おばあ様と仲が悪かったし、父さんともよく喧嘩をしていたけど、俺のことも重荷に感じてたんだってわかった。病気を治すには全部捨てなきゃダメで、俺のことも捨てなきゃダメなんだって」 父親は唇にマグカップをあてたまま、静かに目を伏せていた。 「すごい悲しくて、泣いちゃってバスに乗れなくて、次の停留所や追い越していくバスのルートを辿りながら、七王子駅まで歩いた。ティッシュを使って鼻をかんで、駅のトイレで手と顔を洗ってきちんとハンカチで拭いて、そんなふうに育った俺も、母さんを苦しめてるんだってわかったんだ。…………もっと自由に歌ったり、飛び跳ねたり、自然からインスピレーションを受けて表現する子どもらしい子どもに育てばよかった」 「稜而。あなたは思慮深くて、思いやりもあって、素晴らしい少年だと思う。母さんよりは私に似て、芸術の分野は鑑賞専門だと思うけど、自慢の息子だ」 「ありがとう。ごめんね、父さん。絶対、誰にも言わないつもりだったんだけど。思い出しちゃった」 すっと鼻を啜って、自分の目に涙があることに気づいた。顔を上げると、父の両目も赤く、目尻から顎まで一筋の涙が伝っていた。

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