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第50話

 ピアノの会の演奏会は、一階と二階の高低差を利用した急な階段状の講堂で行われた。どの席に座っても視界を妨げられることはない。  昨年、倫と二人で見学を兼ねて聴きに来たときは講堂内の人はまばらで、有名なインカレサークルという割に地味な印象だったし、実際に入会したした倫も、電話口で自分が演奏する予定時間を教えてくれながら、同じような見通しを口にしていた。  しかし少し余裕を持って辿り着いた教室は、立ち見が出るほどの盛況で、しかも女子学生が多かった。  渡部くん、倫くん、そんな声が聞こえてくる。  そしてダークスーツ姿の倫が登場すると、小さな悲鳴と大きな拍手が鳴り響いた。  久しぶりに見る倫は、颯爽としていて、白馬に乗った王子様という表現がぴったりだった。  演奏曲は『「美しき青きドナウ」 の主題による演奏会用アラベスク』。  それはふたりが卒業式の翌日に見た海のように、鈍色の水面に陽の光が細かく砕け散るような煌びやかな演奏で始まり、終始淀みなく超絶技巧を弾き切った。  演奏中の十二分間、稜而は共にした一夜を思い出していた。霧雨に包まれた宿で繋がる身体、快楽を目指した疾走、絶頂の瞬間、一つの布団に潜り込んで交わした視線。何もかもが懐かしかった。 「懐かしい……?」  稜而はあの日から今日までの抜け落ちた二か月間に気づき、自分の両手を見た。まるでこの指の隙間から、砂をこぼしてしまったように、何か取り返しのつかないことをしたのではないか。  演奏が終わるとすぐ講堂の階段を駆け上がり、廊下へ出て階段を降りて、講堂の一階の出入口へ駆けつけた。  倫は華やかな衣装を着たサークル仲間らしき女性たちと次々にハイタッチを交わし、談笑していた。 「倫」  呼び掛けると、倫はすぐに振り向いて、笑顔で歩み寄ってきた。古く薄汚れた校舎の中で倫の姿は圧倒的に輝いていて、ありふれたカッターシャツとジーンズ姿の稜而は思わずたじろぐ。 「夕方の打ち上げまでフリーだから、お茶でも飲む?」 柔らかな黒髪を揺らし、目を細める姿を見て、この人は誰だろうと稜而は考えた。  キャンパスには自然のままの池があって、缶コーヒーを買ってその畔のベンチに座った。キャンパス内は混雑していたが、池の周りだけは静かで、倫が缶コーヒーのプルトップを開ける音が爽やかに響き、肩幅に脚を広げた膝の上に両肘をついて池を眺める精悍な横顔を見た。  可愛らしさは消え、顔の凹凸は男性らしく、くっきりしていて、何人の女性がこの横顔に気づき、見蕩れただろうかと想像する。 「元気そうだな」 そんな言葉しか出てこなかった。 「稜而もね」 そう言って笑う倫の笑顔には大人びた苦味すら漂っていた。 「演奏、よかった。卒業式の次の日に見た海を思い出した」 「ありがと。十九世紀末の曲だから、世紀末的な退廃がある。青く澄んだ水じゃなくて、あの日に見た海の灰色なんかをイメージしてくれたなら、僕の演奏は成功してる」  倫の言葉に稜而はうんうんと頷いた。倫は小さく笑う。 「その癖、好きだよ。ずっとそうやって頷いてほしい」  ベンチの上に置かれていた稜而の手へ、倫の手が重なった。稜而がおずおずと手を動かすと、倫の手も動いて、二人の指は交互に絡んで握られた。 「よかった。稜而とは、もうこんなふうには手をつなげないかもって思ってた。何となく」 「俺も。でも、つなげる。大丈夫だ」 稜而がまたうんうんと頷き、倫が笑ったとき、倫の携帯が鳴った。 「ごめん。呼ばれちゃった。行かなきゃ」 「うん」 「来月の新人戦、応援に行くからね」 「ありがとう。頑張る」 ふたりは笑顔になり、軽く手を挙げて別れた。  しかし、稜而は六月の新人戦に出場しなかった。祖父の死が重なった。

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