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第51話

 祖母と祖父の相次ぐ他界も、孫にできるのは素直に悲しみ悼むことだけで、そろそろ夏休みという七月六日、稜而が風呂に入って戻って来たら、ベッドの上で充電していた携帯がちかちかと光っていた。  倫からの着信で、留守電にメッセージが残っていた。 「ごめん、稜而。別れたい。……もう稜而は僕と付き合ってるなんて思ってないかも知れないけど。僕はまだ付き合ってるって思ってたんだけど」 その声は涙で震えていて、嗚咽と同時にメッセージは途切れていた。  すぐにコールバックしたが反応はなく、メールの返信もなく、稜而は暗い部屋の中で意味もなく倫との履歴を辿りながら過ごした。  翌日の四限は発生学の講義だった。教室は一階で、正門に続く並木道に面していて、多くの人が行き交っている。 「お前、俺の講義を聞きながら、よくまぁそれだけ笹の葉ばっかり見ていられるな。腹を空かせたパンダか?」  見回せば教室の中は閑散として、隣には非常勤講師の如月が座って頬杖をついていた。 「今日、七夕なんですね」 窓の外に目を戻し、誰かが作った七夕飾りが揺れるのを見た。 「残念ながら、今夜は雨が降るらしい。織姫と彦星の逢瀬は叶わないな」 「会えなくたって、気持ちがあればいい。大切なのは物理的な距離より、心の距離の問題ですよね」 方向の定まらない風に揺れる七夕飾りを見ながら、稜而は投げやりに言った。 「失恋か?」 「なんでそう思うんですか」 「まず一に、俺の講義がつまらないはずがない。このクラスにいて今さら寝不足や勉強量の多さにぼんやりする奴はいない。似通った奴が集まる中で、この中途半端な時期に友人関係に悩むパターンも少ない。自分より頭のいい奴に出会って落ち込む最初の時期は過ぎている。次に劣等感を抱くとすれば、進振りが現実味を帯びてくる一年後だ。だとしたら、残りは恋愛とセックスくらいしか思いつかない。まさか医学を志して絶望するには早すぎる」 稜而は七夕飾りを見たまま、理髪店に行きそびれて伸びた前髪を吹き上げた。 「先週までヘアワックスでぴかぴかに決めていた野郎が、そんな寝癖だらけの髪でボーッとしてりゃ、お洒落する必要性がなくなったと推測するのも簡単だ」 「先生の観察眼には敬服します」 「そう思ってる割に、セリフが棒読みだぞ。もっとしっかり敬服しろ」 片頬を上げて笑う如月の顔が目の端に移ったが、稜而は無視した。如月は構わず話し掛ける。 「勉強ばかりしてる男は嫌いだってか?」 「どうでしょう。相手の勉強量もさほど違わないはずです。理由は聞いてないのでわかりません」 「相手が理由を言わないなら、それが優しさだな。聞かないまま忘れろ」 日本刀で斬り捨てるように言われて、稜而は如月の顔を見た。 「そういうものなんですか。理由を訊きたいんですけど」 「そういうものだな。追及したところで『キモい、マジ無理』と塩を塗りこまれるのが関の山だ」 「俺、キモかったかなぁ?」 「さぁな」 如月は頬杖をついたまま、稜而の姿を頭からつま先まで満遍なく見た。 「お前は真面目だが、真面目過ぎない。提出期限は守るが、先輩からノートのコピーを手に入れる要領のよさも、コミュニケーション能力の高さもある。清潔感はあるし、所作も躾られていて、品も悪くない。今回はたまたま相手が悪かっただけだ、そう気にするな」 「ありがとうございます。少しは慰められます」 まったく心のこもっていない声で礼を言い、また窓の外を見た。去年の七夕の頃は球技大会だった。ふたりとも一回戦で早々に負けて、体育館の壁に一緒に寄り掛かっていたんだった。  そんな記憶を辿っていたとき、窓の向こうを倫が通り過ぎていった。珍しく顎ににきびがあり、柔らかな黒髪は風に弄ばれて、皺のついたジレをなびかせていた。 「急用を思い出しました。失礼します」 稜而は言いながらリュックサックを手繰り、背負いながら校舎を出て、倫の背中へ風に負けない声で呼び掛けた。 「倫!」  倫は素直に振り返り、稜而が追いつくのを待った。 「昨日は変な電話をしてごめん」 「ううん。……倫の言わんとすることが汲み取れなくて、気になってた」 「そっか。そうだよね。少し話す時間ある?」 「うん」  別れ話って、こうやって始まるのか。稜而はゆっくり鼻から息を吸って深呼吸をした。

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