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第52話

 辿り着いたのは、二つの駅の間に掛かる跨線橋の上だった。夕方のラッシュに差し掛かり、足の下を絶え間なく電車が行き来する。架線に削られたパンタグラフがやけに光って見えて、寝不足の目に刺さる。 「ここ、好きなんだ。どっちの駅も見える。曇りの日は線路が満遍なく光ってキレイだよね。この場所を見つけたとき、すごく稜而に言いたかったのに、何か言いそびれちゃった」 「俺も言いそびれてたことがある。車の免許を取った」 「わあ、おめでとう!」 倫は素直に明るい声で祝ってくれた。 「今度、ドライブする?」 「行きたいね。稜而とだったら、きっと楽しい。……でも」 突然、倫の顔が曇った。それどころか黒曜石のような瞳からぼろぼろと大粒の涙を流し始めた。 「り、りん?」 「男子校だったからなのかなぁ? 僕が稜而を好きになったのは、男子校だったからなのかなぁっ?」 「え?」 「男子校は感覚が変になるって。一時期、稜而はよくそう呟いてた。でも僕は違うって思ってた。性別なんか関係なくて、稜而が運命の人なんだって!」 叫ぶ倫の髪を、雨を含んだ風がかき乱す。 「嫌だよ! 僕、稜而以外の人のことなんか好きになりたくないよ! 稜而とふたりでずっと楽しく遊んで、笑っていたかったのに! 何でっ? 何でだよっ!」 倫は稜而のシャツを強く握って俯いた。 「……止められないんだ。女の子を好きになっていく自分を。男同士のセックスが気持ち悪くなっていく自分を。止められないんだ。偏見とか差別とかどんなことを考えても止まらない。稜而とのセックスは本当に嬉しかったのに。気持ちよかったのに。無理なんだ。ごめん!」  目の前で崩れ落ちていく倫の両肘を保持しながら、稜而の目は真っ直ぐ前を向いていた。視界から倫が消えて、どこかの家のベランダに括りつけられた七夕飾りだけが揺れていた。  灰色の雲の中を閃光が走り、避雷針へ繋がったと思った直後に、空を真っ二つに引き裂くような雷鳴が鼓膜を貫いた。気づけば辺り一面は水浸しになっていて、自分たちも土砂降りの雨の中にいた。  風邪を引く、雨やどり、思いつく言葉はあれど、唇すらも動かなかった。ただ、互いに肘を掴み合っている両腕から、激しく泣く倫の振動を感じていた。  どうしたらいいのかわからなかった。浮気より、心変わりより、逆らえない。  背後の道路を、救急車が通り過ぎて行った。命をつなぐサイレンの音が、稜而の気持ちを支えた。 「倫、立って。話はわかった、大丈夫だ。俺は平気。いや、平気じゃないけど、大丈夫。これからゆっくり消化していく。大丈夫、大丈夫だ。大丈夫なんだ」  倫に言い聞かせる「大丈夫」が、自分への言い聞かせにもなった。両足にも地面を掴んでいるという感覚が戻って、激しく泣き続ける倫の両腕を引き上げた。  素直に倫は立ち上がったが、泣き腫らし、雨に打たれて、憔悴し切った顔をしていた。稜而は丹田に力を込めた。 「泣くなよ、倫。とても自然なことだろ。俺もちょうど自分がゲイなのかどうかを考えているところだった。結論が出るのが、倫のほうがほんの少し早かっただけだよ。つらい役回りをさせてしまってごめん」  倫はうつむき、柔らかな黒髪の先から雫を垂らしながら、稜而の言葉の一つ一つに小さく頷いたり、首を横に振ったりした。表情は見えなかった。 「好きだよ、倫。でもこの好きっていう感情は友人としてだ。…………俺たちは男子校にいたから、少しだけ感覚がおかしくなっていたんだ。男子校の外に出た今の感覚のほうが正しい。それだけのことなんだ。だから泣くなよ、倫」 倫はうつむいたまま小さく頷いた。かつて唇を押しつけたつむじが見えていた。 「もう帰ったほうがいい。このままじゃ風邪をひく」 今さら折りたたみ傘の存在を思い出して、リュックサックのサイドポケットから引っ張り出して広げた。ふたりの上に晴れた夜空のような紺碧が広がった。 「うん。大丈夫。そういえば、僕も傘を持ってた」  赤くなった鼻をぐずぐず鳴らし、倫も紺碧色の傘を広げた。その持ち手には、まだ高校のクラスと渡部倫という手書きの名前が残っていた。 「稜而。本っ当にありがとう」 「こちらこそ、ありがとう」 稜而はうんうんと頷き、一瞬だけ傘から手を離して倫をハグした。同時に倫の手も稜而の背中にそっと回され、同時に離れた。  うん、じゃあ、また。うん、また。ぼそぼそと挨拶を交わして、ふたりは互いに背を向けあい跨線橋を反対方向へ降りた。 「振り返るな。倫を困らせるな」  稜而は手摺の錆が小さな天の川のように染みついている階段を下りきると、そのまま最後の一段に腰を下ろし、入学祝いに父親から貰った腕時計を見た。秒針だけでなく、分針の目盛りもいくつか進むまで待ち、上りと下りの電車が警笛を鳴らしながら交差する瞬間に声を上げた。 「うわああああああああああああああああああああああああああああっ」  稜而は厚い雲が覆う空に向かって顔を上げ、降り注ぐ雨で自分の顔を洗い流す。閉じた瞼の内側に、跨線橋の上で泣きじゃくった倫の姿が映る。 「もう思い出になってるなんて、時間って残酷だ……」  立ち上がると、喉にひりつくような痛みを感じながら、線路に沿った真っ直ぐな道を歩き出した。

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