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最終話

「あら稜而先生、そういうときは御芳名の『御』と『芳』、両方消すのよ。出席に丸をつけたら、その前後に『慶んで』『させていただきます』って書くといいわよ」 隣に座る指導医がボブカットの髪を揺らし、コーヒーを飲みながら教えてくれる。その手にあるマグカップには、『おかあさま、いつもありがとう』と読み取れる拙いクレヨンの文字と、おかっぱ頭の笑顔がプリントされていた。  母親から返信を受け取ったとき、家の中は葬儀やそれに伴う雑事で混乱していて、それきり音信は途絶えたままになっている。指導医のマグカップを見るたびに、返事をしていない気がかりを思い出しては、すぐに忘れていた。自分の名前を検索すれば、この病院の整形外科の外来担当医一覧に名前が出るし、自分も母親の名前を検索すればライブの予定は確認できた。今はもう、それ以上に話すこともないような気がしている。  渡部 倫 行 と書かれたハガキの『行』を二重線で消して『様』と書き、院内のポストに投函して、救急外来へ行った。  今月から一人で整形外科の当直を担当する。整形外科だけで一系統確保している病院は、このあたりでは珍しいので、本来なら三次救急へ回される症例も取ることもできて、後期研修医が学ぶ環境としては悪くなかった。  包丁で切ったという左の人差し指にドレーン代わりの糸を留置して縫合していたとき入電し、十七歳男性の交通外傷を引き受けると決めた。  他科へコンサルトするためには、どれだけの情報を揃えればいいか。問診と検査の予約、検査の準備が整うまでにできること、やるべきこと。頭の中で組み立てながら救急車を迎えに外へ出て、その華やかな色彩に顔を上げた。  珊瑚色に染まった空に浮かぶ雲は、沈む夕陽に地表側から照らされて、五色に光り輝いていた。 「きれいな空だ」 「今夜は七夕だから、織姫さんがデートに備えておしゃれしてるんじゃない?」 「なるほど」 隣で一緒に救急車を待つベテランナースのロマンチックな言葉に、稜而は素直に頷いた。  静かに止まった救急車のハッチバックへ近寄り、人や物が転がり落ちてこないように声を掛けた。 「開けるよ」  コン、コンコンコン。中指の第二関節を四回車体にあてる。  中から返事が聞こえて、稜而はハッチバックドアを跳ね上げた。 「うっ」  ミルクティ色の巻き髪を持つ少年が両手で胸を押さえたが、その理由が稜而にはわかった。自分も同じ気持ちだった。一目見るよりも先に射抜かれた。  人差し指から外れて飛んできたモニターをキャッチしながら、稜而は、急に心が安定するのを感じた。半分にされていたアンドロギュノスが、探し求めていた片割れを見つけたら、きっとこんな気持ちだろう。  見つけた、コイツだ。もう探すことも不安になることもしなくていい。 「降ろすよ、頭、気をつけて! ゆっくり、ゆっくり!」 声を掛け合いながらストレッチャーを引き出した。 ***  遥は退院目前で、院内のコンビニで買ったという『ららぶ二人でお出かけBOOK』を眺めては機嫌よくしている。  病院の決まりで日曜日の回診はなく、稜而は友人として個人的に遥を見舞って、時間が許す限り一緒に過ごす。 「ねぇねぇ、遥ちゃん、ラブホテルに行きたいのん。この写真、見て見て! 滝が流れ落ちてるのん! プールとゴンドラがあるお部屋とか、ここなんて金箔の部屋に石庭があって赤い橋まで架かってるんだわ! この東南アジアリゾート風なんて、探検隊の気分になれそうなのん。行きたいんだわー」 「遥が面白がって食らいつくくらいの仕掛けがあれば、誘うほうも話題にしやすいし、誘いやすいだろうからな。ホテルの経営戦略は成功してるな」 「おーいえー! 遥ちゃんは稜而をラブホテルにお誘いするんだわ! 稜而は『面白そうだな、行ってみようか』って誘われなきゃダメなのん」 「『面白そうだな、行ってみようか』。これでいい?」 「オッケーなのん。もちろん一緒に行ってあげるんだわー!」 ミルクティ色の髪を振り、若草色の目を細めて笑う。光がはじけるようだ。 「そろそろ行ってこようかな。帰りにまた様子を見に来る。引き出物にバームクーヘンがあったら、遥にあげる」  社会人になって最初のボーナスで買ったダイバーズウォッチを見て、稜而は椅子から立ちあがった。ダークカラーのスーツに祖母の形見の着物を仕立て直した桜色のネクタイとポケットチーフ。  遥は曲がってもいないのに、わざわざ両手を伸ばしてネクタイの結び目とポケットチーフの向きを直してくれて、それから催促するように右手を出した。 「何?」 「インビテーションカードを拝見しますのん」  稜而は祝儀袋を包んだ袱紗と一緒に入れていた招待状をジャケットの内ポケットから取り出して、素直に遥の手に乗せた。  遥はその封筒を鼻先にぴたりとくっつける。そのまま目を閉じ、鼻から軽く空気を吸った。 「ふんふん。倫さんは、稜而の大事なお友だちなのん。思い詰めるほどに大事だったお友だち。でも心配しなくていいわ。今は遥ちゃんがいますのん。稜而は笑顔でいっぱい拍手して、おめでとーって言えばいいのん。『元気?』って訊かれたら、『元気だよ。真剣に愛しあってる人がいる』って、そう言えばいいのん! もし泣きたくなっちゃったら、我慢して帰って来て。遥ちゃんの腕の中で、好きなだけ泣かせてあげますのよ」  稜而は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに破顔し、遥の頬に口づけた。 「ラブホテルを予約しておけ」 「おーいえー!」

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