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第14話

 玄関にたたずんで、呆然とする。部屋がとてもよそよそしい。だけどここが、本来の俺の居場所だ。靴を脱いで部屋に上がって、テーブルに荷物を置いて窓を開けた。締め切ったままの部屋の空気が、静かに動く。スマートフォンを充電して、テーブルの上に置いた荷物に目を向けた。  風呂敷に包まれているのは、俺の服だ。風呂敷は、返さなくてもいいですよと言われた。もう二度と会いたくないと言われた気がした。そんなことはないと思いたいけれど、自分の飼いネコ(?)の不始末のために、好きでもないのに抱いた男の顔なんて見たくないんじゃないかとも思う。  頭と尻を触ってみる。ネコの耳もしっぽもない。完全に人間になっている。里見さんに抱かれてからずっと、ネコになる兆候は感じられない。オシロに「完全に人間に戻っている」と言われても、信じたくなかった。人間に戻りたいと望んだのに、あのままでいたかった。  ワガママだなぁと自分を笑う。  人間に戻れてホッとしている。それは事実だ。だけど、里見さんと過ごせなくなったことに落胆している。 「なんで、惚れちゃったかなぁ」  どこに惹かれたのか。いつ惹かれたのかと考えてみても、里見さんの全部が好きだと感じるだけで、一部を切り取って説明なんてできやしない。里見さんが好きで、好きでたまらない。 「里見さん」  だから抱かれようと思った。人間に戻りたいからじゃなくて、里見さんとキスやそれ以上のことをしたかった。その気持ちのほうが強い。 「奇妙な体験だったなぁ」  猫又がいるってことも、人間がネコになれてしまうってことも、胸を掻きむしりたくなるくらい、好きな人ができたことも。ぜんぶが夢だったらいいのに。  充電途中のスマートフォンを起動させて、上司にメールを入れる。  月曜日から出勤します。  送信の文字をタップして、表示されている日付と曜日をながめた。有給を消化しきるまえに人間に戻れた。使ったのは去年からの繰り越しだけで、まだ今年の有給は残っている。それを使い切るまで、ネコのまま粘っていれば、あと一か月くらいは里見さんと過ごしていられた。 「あんまり休んでいると、会社に行きたくなくなるしな」  仕事の内容だって、忘れるかもしれない。自分に言い聞かせて風呂敷を開くと、かすかに里見さんの家の匂いがした。恋しさが湧き上がって、目の奥が熱くなる。 「女々しいなぁ」  笑い飛ばそうとしたのに、涙がこぼれた。いい大人になって、なにを泣いているんだと首を振る。ぬぐってもぬぐっても、涙は止まらない。気分転換をしようと、泣きながら服を片づけて掃除をはじめた。  昼食を食べるのも忘れて、日暮れまで掃除を続けた。涙は止まったけれど、ぽっかりと胸のあたりにおおきな穴が開いている。  いずれ、ふさがるって。  自分を励まして冷蔵庫を開けて、すきっ腹にビールはよくないと思いつつプルタブを開けた。ベランダに足を向けて、ガラス戸に手を伸ばして開けるのをためらう。戻ったばかりで庭を見下ろしたら、オシロになにか言われそうだ。  だけど、もしかしたら里見さんの姿が見えるかもしれない。  よぎった可能性に抗えなくて、ガラス戸を開けてベランダに出る。居心地のいい縁側には、オシロどころか野良ネコの姿さえなかった。  あたたかそうな光が部屋の中から漏れている。あの灯りのなかで、里見さんはオシロと過ごしている。ふたりのキスシーンが脳裏にちらついて、振り払うために缶ビールをあおった。 「もう俺には関係ないんだから」  言い聞かせるためにつぶやいたのに、吹っ切れるどころか未練がぶり返してきた。部屋に戻って畳んでおいた風呂敷を顔に押しつける。深く息を吸い込んで里見さんの匂いを感じて、声を上げて泣いた。  この匂いがなくなるころには、きっと想いは振り切れているはずだと必死に思い込もうとしながら、月曜日がくるまで部屋に引きこもって、里見さんの名残を追いかけて泣き続けた。    ***  日常を過ごせばきっと、そっちに慣れて奇妙な体験は夢だったのだと思えるはずだ。  そんな俺の希望は見事に裏切られた。ハロウィンの浮かれた気配が消え失せて、クリスマスのどこかソワソワとした期待の空気が世の中にただよっても、俺は想いを吹っ切れなかった。夜の酒はビールから焼酎に変わった。味なんてどうでもよかった。ただ酔って眠りたかった。ふとした瞬間に里見さんを思い出すから、仕事に熱中した。体が壊れるほど働かされるくらい、忙しくなればいいのに、なんてことまで考えた。 「里見さん」  すっかり匂いの消えてしまった風呂敷をながめて、焼酎をあおる。いっそ捨ててしまおうかとも思ったけれど、里見さんとのつながりが欠片もなくなるのはいやだった。  俺って、こんなに情けない男だったっけ。  本気でだれかに惚れたら、こうなってしまうのかと恋愛ドラマを見て共感した。汗をにじませて俺に体をぶつけてくれた里見さんを思い出しながら、自慰をしてむなしくなった。食欲はないけれど、食べなきゃいけないと言い聞かせて食事はしている。だけど、なんの味もしない。和食だと里見さんの味を思い出すから、なるべく避けた。  ひとりでいたら里見さんのことを考えてしまうから、社内や取引先との忘年会には積極的に参加した。だけど、だれかといても、ふとした瞬間に里見さんを思い出してしまった。新しい恋でも見つければいいのかと、出会いサイトに登録をしてみたけれど、よけいに里見さんが恋しくなっただけだった。ナンパをしてみるかと考えても、ちっともその気になれなかった。 「おい、大丈夫か?」  そんな声を上司や同僚、はては後輩からもかけられるくらいに、俺はおかしくなっていた。大丈夫じゃないけれど、相談できるはずもない。あいまいに笑って、インフルエンザの疲れが残っているらしいと答えておいた。年を取ると回復も遅くなるんだよなぁとぼやけば、まだそんな年でもないだろうと返された。 「はやく嫁さんもらって、世話してもらえよ」  冗談めかした同僚の言葉に、軽い口調で返す。 「俺の世話をさせるために結婚するとか、相手がかわいそうだろ」  そりゃそうだと同僚が笑う。もしも俺がネコのままだったら、里見さんに俺の世話をさせっぱなしになっていた。そんなの、里見さんがかわいそうだ。だから、これでいい。これでいいんだ。  すべては里見さんと出会う前と変わりない。仕事でミスもしていないし、社内外のコミュニケーションもスムーズにいっている。摂取するアルコールの度数が高くなって、食べ物の味がわからなくなっただけだ。やけ酒ってほど飲んだくれてはいないし、食べられないわけじゃないから問題ない。笑顔だってちゃんと作れる。いままでどおり、なにも変わらない。違っているのは、俺の心の中だけだ。  だけど、それもきっとすぐに戻る。時間が経てば気持ちも慣れて、以前のとおりになるはずだ。だけどもう、ネコになりたいなんてつぶやかない。うっかり猫又に聞かれてしまったら大変だから。そうそう猫又と出会うなんてないだろうけれど、一応の用心として。  なりたかった理由もはっきりしたし、ネコになってもしかたがないって体験したから、ネコを見たってうらやまない。  あの庭に、縁側に行けるのは、とてつもなくうらやましいけれど、そこは諦めて生きていこう。  大丈夫だ。時間が経てばきっと、大丈夫。あの出来事は夢だったんだと思えるはずだ。猫又が存在していて、人間をネコにできるなんておかしな体験、日常を過ごしていれば自分でも信じられなくなって、里見さんへの想いといっしょに記憶の彼方に押し込められる。  だから、きっと大丈夫。  この想いは、吹っ切れる。

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