7 / 15
煉獄
───落ちるっ……!!
真っ暗な川へと落ちていくノアを追って、ザカライアとルシアンは橋の手すりを飛び越えた。
「……っ!?」
バサリと大きな羽音がして、二人の手がノアの体を掴んだ。 急な浮遊感にノアはきつく目を閉じると、落下していたはずの体が大きく舞い上がった。
「ノア。 大丈夫?」
「おい、平気か?」
恐る恐る目を開けば、ノアを抱きかかえた二人の背には大きな翼があった。
ザカライアには純白の翼が、ルシアンには漆黒の翼が。
ひとつ羽ばたいて再び橋の上へと舞い降り、二人は翼を背に仕舞った。
「おい、離せ」
「貴方こそ離しなさい。ノアが怯えている」
ルシアンは足を、ザカライアは上半身を抱きかかえていた。
今更ながら落下した恐怖に体が震えてきた。ノアは思わずザカライアの首にぎゅっとしがみ付いた。
「ノア……」
ザカライアは嬉しそうに微笑んで、ノアの細い体を抱きしめた。
ルシアンは舌打ちをしてノアの体から手を離した。
久しぶりにザカライアに抱きしめられて、ホッとして震えが治まった。まだ彼が人を殺す前の優しい養い親だった頃をノアは思い出したのだ。
でも、ザカライアもルシアンも人間じゃない。ずっとノアを探していて捕まえたのだ。
自分をどうするつもりなのだろう……ノアの心中を不安がヒタヒタと満ちていく。
ザカライアはノアを抱いたまま、ルシアンも一緒に宿へと戻った。窓ガラスの破片の周りに、騒ぎを聞き付けた宿屋の主人や近所の人達が集まって人だかりができていた。
「お、お客さん! いったい何が……ひぇッ!?」
宿屋の主人がルシアンの元へ駆け寄ってきたが、その姿を見て悲鳴を上げた。
金色に輝く獣の瞳に長い犬歯、黒髪からは角の先端が見え隠れして、ルシアンの姿は人間離れしていたからだ。
「あ……あ……あく……」
「やかましい!!」
ノアがザカライアに抱き付いたことで相当苛立っていたルシアンの八つ当たりのような咆哮に宿屋の主人や野次馬ども凍り付いた。
「チッ……いいか、お前らは夢を見て寝ぼけたんだ。さっさとベッドへ戻って寝ろ」
ルシアンが手をかざすと皆トロンとした顔になり、ふらふらと夢遊病者のような足取りで各々の家へ戻っていった。
「窓はてめぇが直せよな」と低く告げて、ルシアンは宿へと入っていった。
ノアはザカライアに抱かれたまま部屋に戻った。
ザカライアが軽く手を振ると割れたガラスが一瞬で元の戻った。ノアは放心状態でそれを見ていた。
幼い頃、ザカライアの事を魔法使いだと思っていた。
やっぱり彼は魔法が使える。でも、魔法使いじゃない。ルシアンも……。
部屋に戻ったルシアンはドカリとベッドに座った。少し落ち着いたのか、角は引っ込み、牙も短くなっている。瞳は金色のままだが。
「いつまで抱いてる気だ?」
ルシアンがイライラしながらザカライアを睨んだ。
ノアは慌てて「おろして」と、ザカライアの腕の中でもがいた。 ザカライアは残念そうに眉尻を下げて、そっとベッドにノアを下ろして、その隣に座った。
ノアはルシアンとザカライアの真ん中に座らされて、びくびくと交互に二人を見た。
───これじゃ逃げられそうにない。 だいたいなんで俺を追いかけてるんだ?
「あ、あんたら……いったいなんなの?」
ノアの言葉にザカライアの方が答えた。
「私は天使で彼が悪魔だ。ノアを食い殺す魔物だよ」
ノアはヒッと怯えてザカライアの方に寄ったが、ルシアンに腕を掴まれて引き戻された。
「おい、怯えるな。食い殺すわけねぇだろ。だいたい天使の方が冷酷なんだぞ」
そう言われてザカライアが少年を殺した事を思い出し、今度はルシアンの方へ逃げた。
「……貴方、いい加減な事は言わないでください」
「事実だろうが」
喧嘩でも始めそうな険悪なムードにノアは焦って言った。
「ねえ! ふ、二人とも知り合いなの? なんで俺を探してたんだ? 」
「……100年だ。ずっとノアを探していた」
「君が煉獄にいた時から、ずっと愛していた」
二人の瞳がノアを熱く見つめた。
───100年前。
ルシアンは地獄を抜け出して煉獄文字 に来ていた。
煉獄は地獄にも天国にも行けない存在が住む場所だ。赤い大地にぽつんぽつんと岩場があって、ちらほらと木が生えている殺風景な場所だった。
本来なら上位の悪魔であるルシアンの行くような場所ではない。ここに通うのは愛しい者の顔を見る為だ。
ルシアンは190を超える長身に逞しい体躯に彫の深い魅力的な男らしい顔立ちをしていた。
肩まで伸びた黒髪を無造作に流している。その髪の隙間から雄山羊のような立派な角が生えていた。
だらしなく着崩した赤と黒の軍服が逆に男の色香を醸し出している。
ルシアンは悪魔の軍団の大隊長だ。天使どもとは休戦状態ですっかり暇になっていたが。
「ノア。やっぱりここにいたか」
目当ての相手を見つけてルシアンは薄い唇に微笑を浮かべた。 どんな女も抱かれたいと願ってしまうほど魅力的な笑みだったが、ノアは不快そうに眉根を寄せた。
「下りて来い」
「嫌だ」
ノアはザクロの木の上で昼寝をしていたのだ。嫌な奴が来たと、隠しもせずに不愉快な顔でルシアンを睨んだ。
「土産がある。きっと気にいるぞ。お前の好きな黄金だ」
「……」
この悪魔はどれだけ冷たくあしらってもノアを口説き続けた。ルシアンの事など全く好きではないが、彼の貢物は魅力的だ。
ノアはしぶしぶといった様子で木の上から下りてきた。
ノアは20代半ばくらいの美しい青年の姿をしていた。
少し長めの短髪は光によって輝いたり、鉄のようにくすんだりもする不思議な銀色をしている。
180はある長身に無駄の無い筋肉の付いたしなやかな肢体。
右の瞳はエキゾチックなブルー、左の瞳はゴージャスなゴールドだ。
ルシアンはうっとりとノアの完璧な美貌を見つめた。
「じろじろ見るな。気色悪い」
美しい唇から放たれる毒舌さえもルシアンには甘く感じられるのだ。
「まあ、そう言うな。ほら、賭けで勝って貴族から奪ってきた。見事な細工だろう」
ルシアンはジャケットのポケットからベルベットの布に包まれたものを出して見せた。
布の上には黄金の腕輪だ。繊細で美しいデザインだった。
ノアはやや紫がかった赤い腰巻きを巻いており、上半身は裸でジャラジャラと黄金のアクセサリーを付けていた。
腕輪やチェーンベルトに耳飾り、そのほとんどがこの男からの貢物だ。
ルシアンは嫌いだが黄金は好きだ。ノアは美しい装飾の施された腕輪をじっと見つめた。
「ほら……」
ルシアンはノアの手を取って腕輪をはめた。ノアの白い手首によく似合っていた。ルシアンはその手首をなぞるように親指を這わせた。
「離せ。触んじゃねぇよ、変態」
ルシアンを変態などと呼ぶものなど、他にはいない。他の者がノアのような口の利き方をすれば、さっさと殺しているだろう。本来ならば気性の荒い悪魔なのだが、ノアだけが特別だった。
ルシアンは笑みを深めて、ノアの手首をぐいと引き寄せた。
「あっ! おい!」
逞しい腕で細い腰を腰を抱いて、互いの胸を合わせた。ノアは頭ひとつ背の高いルシアンを思い切り睨む。
「俺とお前、しっくりくると思わないか?」
「思わない」
「キスするのにも、抱き合うのにも……ちょうどいいだろう」
ルシアンはひどく甘い顔と声で囁いて、顔を寄せた。この悪魔の誘惑ならば、男でも女でも簡単に堕ちるだろうが……ノアはその顔に頭突きをして飛び退いた。
「……ッ!!」
「させるか、バカ」
「……くそっ。ジャジャ馬め! だが、それでこそお前だ。気の強いところもたまらない」
ルシアンは痛む顎を撫でながら笑った。 ノアは悪魔と天使の混血だ。
下級天使とインキュバスが一夜の過ちで交わってできた子供だった。ノアは煉獄に産み捨てられていたので両親を知らないが。
それもそうだ。天使と悪魔がセックスをして子供をつくるなど……馬と牛が交わって子をつくるようなものだ。
つまり「ありえない」のだ。産んだインキュバスも恥と感じたのだろう。
ノアは一人で煉獄で育った。
煉獄てまは皆、他者に無関心なので、ハーフブリードのノアにとっては生きていくことが逆に楽と言える環境だった。
ルシアンは初めてノアを見た時から夢中になった。
恋に堕ちるとはまさにこの事だ。
天使どもとの戦いでは恐ろしい程の強さと残酷さで屍の山を作ってきたが、未熟で愚かな若者のようにノアにのめり込んだ。
「なぁ、いつになったら俺を受け入れてくれるんだ? こんなに尽くしているのに」
ルシアンの切なげな声にうんざりしたようにノアが振り返った。
そして閃いたように、宝石のようなオッドアイを煌めかせた。
「……地獄の宝物庫。そこにあるルシファーの宝物を盗んできたら、あんたのものになってやるよ」
ノアはわざとできもしない難題をルシアンにふっかけたのだ。
いい加減呆れて、自分の事を諦めてくれないだろうかと思ったのだが……
「……本当だな?」
「!?」
ルシアンはいつものにやけ顔ではなく、怖いくらいに真摯な眼差しでノアを射抜くように見つめた。
その強い視線にノアは思わずたじろいだ。
「望みのものを盗ってきてやる。そうすればお前は俺のものだ」
そう宣言してルシアンは地獄へと戻っていった。
───どうせ盗めやしない。悪魔どもの忠誠心は異常なほどに強いんだ。
そうは思うが……ノアは不安げにルシアンの背を見送っていた。
ともだちにシェアしよう!