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第2話
◆
――――口笛が聞こえた。
ふわりとした浮遊感に目を開き、辺りを見渡すと目の前に青空が広がり、自分は地に立っている。足元を見れば、草原だった。ちらほらと名前も知らない花が咲き始めを迎えている。
「……ここは」
どこだろう。
本当に見渡す限り、一面草原だ。地平線の向こうは見えない。建物もなく、緑の中にちらほらと花が咲く。ハッと息を吐いて、随分と先に一本だけ木が生えているのが目に入った。
自然とそこに向かい足が動く。知らないはずで、来たこともないこの場所を、それでも少し知っている気がした。
素足に触れる草の感覚がくすぐったくて、時折足を止めながらその木を目指す。
青々と若葉が覆うその枝には蕾は見当たらない。ただ、その太い太い幹には細く今にも切れそうな赤い糸が一本、結ばれていた。
結び目は縦になってしまっていて、どこかぎこちない。
「………」
大きく、太い直径六尺はあるだろうその幹は、所々に傷がある。
「…」
ふと息を吐きながら、幹に手をついて上を見上げた。
この木を、知っているような気がして。
「ようこそ、小さな人の子」
不意に聞こえた声に、ゆっくりと振り向くと、背の高いひとりの男が立っている。短い黒髪に、褐色の肌。少しばかり長い前髪からは、赤い目が覗いていた。
「人の子ーーー俺が?」
「おや、違うのかい?」
「―――――――――――――――――湊、」
その、物腰柔らかな声と雰囲気は湊のそれなのに、この湊はただの人間の気配がした。
「あぁ、私は桜庭湊。お前が湊と呼ぶのは私を飲み込んだあの化け物の事だろう?」
綻ぶその瞳も、声も、雰囲気も湊のそれと同じのはずなのに、それでも違う。でも、同じだ。
この湊は間違いなく人間だ。けれど、俺を助けたあの湊は人ではない。何かがたくさん混じってしまっているソレ。
「ーーーーー湊、は、なんなんだ」
自分を化け物と言う、あの湊と、今、目の前にいるこの湊は別人なのか。
真っ黒な着流しの裾には、金糸で紗綾形の刺繍が施されている。その袖で口元を隠しながら、湊はクスクスと花が揺れるように笑う。いつもの湊とは違う笑いかただ。
「さっきの口笛は、あんたか?」
口笛が聞こえてきて、目が覚めた。あれがなかったら、俺は闇にでも飲み込まれていたのだろうか。それも、分からないけれど。
「…そう。迷い子を導くんだよ」
口笛は、道のようなものだから。と湊がふとさみしそうに眉根を下げ、俺は僅かに息を飲んだ。
「あんた、は、なに」
一体、「湊」は何なんだ。ただの人ではなく、化け物のはずなのに、この湊は人だ。けれど、同じ。違うのに、同じなんだ。訳が分からなくて混乱する俺をよそに、湊はまた笑い静かに言葉を零した。
「…………私は、湊。化け物に飲み込まれた、ただの哀れな人間だよ」
目の前に佇む彼は、自嘲気味に笑いながら、腕を組み、あぁ、そうだと言葉を続けた。
「夢から覚めたら、走るといい。合図なら私が出してあげるよ」
「ーーーーー?」
首を傾げながら、湊を見上げれば、頭をぐしゃりと撫でられた。
「小さな人の子、お前は、飲み込まれないようにしなさい。でないと、私のように奪われてしまう」
――――奪われた。それが本当なら、あの湊は悪い奴なのか。だけど、そんな風には見えなかった。どちらかと言えば、あの湊は――――孤独だ。
孤独を、酷く恐れている気がする。
「難しく考えないことだ。私はただ、お前のような小さな子が幸せであれば良いと思うだけだよ」
頭を撫でていた手のひらが滑り落ちて、頬に触れる。ひやりとしたその感触に僅かに目を伏せながら、ちがう、とつぶやいた。
「……あの、湊は別人なのか?」
「いいや。私であり、私ではない。人を模した皮を被った化け物だ。元々は、ただの魂だよ」
ふにふにと頬を触り、湊はくすりと笑うと親指で唇を撫でた。
「さぁ、帰りなさい。繋がりはできたから、また会えるよ」
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