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第10話
泣きたいと思った。
全ての鬼の頂点の様なこの鬼が心底優しくて、頭を撫でる手が暖かくて。
「ーーーーー…っ」
僅かに滲んだ涙に、俯いた。
あぁ、本当に、父様はどこまでも優しい。
「温羅、新月は2日後だ。ーーーー会えて、よかったよ」
おそらく、俺がもう目覚めることは、ない。
きっと、もう父様に会う事もない。
だから、俺が生まれた時、父様と母様は幸せだったのかとか、俺は居ても良かったのかとか、そんなくだらない事を“もう一度“聞きたかった。
先を生きる事よりも、先を望む事よりも、「湊」の願いを叶えたいと思ってしまったから。
「あぁ、おかえり。温羅」
湊の家に帰ると、ちょうど門の所に湊が立っていた。門の柱に体を預けながら、腕を組んで、俺に気がつくと橙の瞳を綻ばせにこりと笑う。
「ーーーーどう、したんだ」
「ん?あぁ、迎えにきただけだよ。あと、見せたいものがあるから、かな」
「見せたいもの?」
首を傾げれば、ついておいでと歩き出す。
湊が住んでいるこの家、と言うか土地は、かなり広い。
どこに向かっているのかわからないままついていけば、鬱蒼と木々が茂る道を抜け、一つの石の前で足を止めた。
ぽっかりと拓けた空間に、無造作に置かれたその石にはもう読めなくなった文字が刻まれている。
「湊、これは?」
「桜庭湊の墓石だよ」
湊は墓石を撫でながら、少し屈むとため息混じりに笑う。
「………墓石」
「この石の前に倒れていた人の子は、桜庭湊と名乗り、魂だけの存在だった私に助けを求めた。ーーーー取り引きの、様なものだったんだよ。生きたいと願った桜庭湊の命を繋ぐ代わりに、私は身体を奪った」
「…後悔、してるのか」
「後悔は、していない。ただ、……そうだね、永く生きてきたせいか、疲れた、が正解かな。気まぐれに人間を育てた事もあったけれど、…結局ひとりになる」
虚しいのか、寂しいのか、かなしいのか、その感情が何なのかいまだにわからない。
吐き捨てる様に言うと、湊は墓石の隣に膝をつき、我ながら愚かな話だなと瞼を伏せた。
「ーーー…俺は、離れない」
思わず、僅かな風に揺れた湊の髪を摘んだ。そのまま湊の前に膝をつき、もう一度同じ言葉を口にする。
「離れない」
離れたくないと思った。
だけど、湊を自由にしてやりたい。これはきっと独りよがりな行動だ。でも、解放してくれるのか、とそう口にした湊の表情が脳裏に焼け付いて離れない。
腹の底からふつふつと湧き上がる感情に、言葉がうまく浮かばない。
「ーーーー…温羅?」
「……もしまた生まれたら、俺は湊を探す。記憶がカケラでも、見つけてみせる。だから、印を、刻ませてくれ」
また、ちゃんと巡り会いたいから。
命が消えようと、確かな繋がりで縛ってしまいたい。
次に出会えたら、きっと、
「……はは、正気?」
乾いたような笑いに、僅かに揺れた声音。俺は確かに真っ直ぐ、湊の目を見つめる。
「正気だし、本気だ」
「もしまた生まれても、私はきっと私じゃないよ」
「ーーーー…その為に刻む、印だぞ。俺が意味を知らないで言うと思ったのか」
「…君は、…随分と愚かな選択をするね」
湊の声が耳元で揺れて、その顔を覗き込む様に体を離した。
金よりも少しばかり濃い髪の隙間から、“赤い瞳“が見える。湊は立ち上がり、ふと息を吐いた。
「あんたには愚かに思えても、俺にはそうじゃない。あんたを離したら俺は後悔するから、その後悔を抱えたまま命を消したくない」
真っ直ぐにその赤を見つめる。
離したくないし、離せない。独りよがりな思いでも、覆す気はもうなくなった。
だって、赤が揺れているから。
「……そんな事を言ったのは、君が初めてだね」
「初めて言ったからな。俺だって、あんた以外に言う気はない」
「はは、そうか」
ちいさくそうかと繰り返し、湊が笑う。俺は湊の顔を包み込む様に頬に手を伸ばし、名前を呼んだ。
「俺は、選んだ。俺が自分で考えて出した答えだ。湊をひとりにしない。だから、俺と約束をしよう」
「ーーーーーー私は、君にそこまで好かれる様な事をした覚えはないけど……なぜ?自分で言うのもどうかと思うけど、色々な魂がないまぜになった化け物だよ。核になる人間は確かに桜庭湊という個人に間違い無いんだけどね」
「夢の湊も、今目の前にいるあんたも同じだったんだ。あんただって本当はわかってるだろ」
湊の頬から手を離し、左手を掴んだ。ひんやりするその手を持ち上げて、甲に一度口付ける。
「………君も、死ぬのか?」
湊の声が、空気に響いて聞こえた。
鼓膜に届いて、ゆっくりと顔を上げると、髪が根元から黒色に変わる。ざわりと空気が揺れた気がした。
「ーーーー…湊」
夜の内は俺をお前と呼び、昼の内は君と呼ぶ。口調すら僅かに変わる湊は、おそらくどちらも湊で、混ざっているだけなんだと。
あの夜に黒髪に赤い瞳の姿を見て、確信した。
夜はこれなんだと笑った湊は、夢の中の湊と同じ口調だった。だから確かに、湊は生きている。長い時間を生きてきた。
だから、解放されたい、自由になりたいのだと。
それはすなわち「死」と同義だ。
「俺は、湊がいない世界で生きる気は無い」
真っ直ぐ見据え、言葉を紡いだ。
嘘はない。偽っても、いない。
違える気も、ない。
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