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第15話
「えべれーたー?」
「エレベーターだよ。温羅」
えも言われぬ浮遊感に顔をしかめながらエレベーターを降りて、湊の後ろをついて歩く。
「ーーーーー…湊」
「ん?」
ふと足を止めた湊の目の前には、一枚の扉。灰色のそれは、開けるにはあまりにも重たそうに見えて思わず名前を呼んだ。
「……なんでもない」
俺がそう言えば、湊はクスリと笑い頭を撫でてから、扉の横にあった小さなぼたんを押した。
少し高い音が聞こえて、次いではーいと人の声が聞こえる。
「………兄、貴…?」
がちゃりと開いた扉の先に、彼はいた。
少しばかり蒸し暑くなってきた季節とは似つかわしくない長袖に、首をすっぽりと隠す、まるで冬の様ないでたちで。
目を見開いた彼は、ひゅっと息を飲んだ。
「ーーーー…やぁ、優呉。会いに来たよ」
湊はいつも通りニコリと笑う。
「……会いに、って、なん、え、………」
「昔、お前に言った通りだ。優呉。私が私としてお前に会いに来るのは、この一度きりだよ」
目を見開いてドアノブを掴んだまま固まった彼は、一拍おいてから「は」と短く声を吐き出した。
「ーーーーー…あんた、は」
俯きかけた彼と目線が合い、気まずくて僅かにそらすと、小さな声が耳に届いた。震えたその声音に、逸らした視線を向ける。
「…温羅、と、言う」
「ーーーーーーーーー…温羅、っ、て、起きたのか」
よかった、とつぶやいた声が聞こえて目を見開いた。どくりと一際強く鼓動が響いて、拳を握る。
居心地が悪くて仕方がない。
「ーーーー…よく、ないだろ」
言葉を吐き捨てて、顔を逸らした。
何も良くない。良いはずがないのに。死にかけて、その原因が目の前にいるのに、そんなのは、
「温羅」
ぽん、と湊が名前を呼びながら頭を撫でて、もう一度、俺を呼んだ。
赤くなりかけた思考を、湊の声と手が止めてくれる。ふと息を吐いてから、彼に向き直った。真っ直ぐに見上げると、戸惑ったようににこりと笑う。
「ーーーー…すまないが、俺は、あんたを覚えてない。……何を、したのかは湊から聞いた」
「………優呉」
「うん。なに、兄貴」
「お前を拾った事も、育てた事も後悔はした事がない。これからも生きて、健やかに、幸せになりなさい」
湊の手が、彼の頭に伸びてゆるりと髪を撫でる。滑るように頬を撫でてから、にこりと笑った。
「泣きそうな、顔をしていた」
挨拶はすぐに終わった。だけど、湊の手は存外に熱い。ぎゅっと握られた手を握り返してポツリと漏れた言葉に、湊がそうだねと答える。
「あの子は優しいから」
「………そうじゃ、なくて」
泣きそうな顔をしていたのは、
「湊がーーーー」
湊が、泣きそうに笑っていたから。
「私が?」
「なんでもない」
目的もなく、どこへ向かうでもなくただ手を繋いで歩いた。遠い場所にいけるならそれで良くて、時間なんてもう僅かしかない。一緒に居られるのは、今日が最後の様なものだから。
ただ歩いて、二人で取り留めのない話をしながら。それが俺はこの上なく幸せだと思った。
「………なぁ、湊」
「うん?」
「………昔、父様ーーー勝呂と、旅をした時、知らなかったものをたくさん見た。あの時の俺は、何も知らず、自分が何をしてしまうのかもわからない無知な子供だった。…子供なのは、今も変わらないけど、」
繋がれた手が合わさる体温に、安心する事すら知らなかった。
今になって、少しだけ後悔している。
「人の事は、今もわからない」
「ーーーーー…それは、私も同じかな」
ぎゅっと繋がる手を少し強く握られて、湊を見上げる。
湊は俺と目が合うと、少し困ったように笑い、すぐに真っ青な雲ひとつない空を仰ぎみた。
「……人間の命というのは、限りがあるからこそなんだと、忘れていた」
小さく吐き出された言の葉は、散り散りに砕けるように沈んで消えた。
短く過ぎていく時間だからこそ、一生懸命に生きていくのだと、そんな単純で当たり前のことが、すっぽりと頭から抜けてしまっていたね。湊は困ったように、呆れたように言葉を吐き、乾いた笑いを飲み込んだ。
「長い時間なんて、生きるものじゃないな」
「でも、湊がいなければ俺はずっと眠ったままだった」
離れそうな手を握りしめ、湊を見上げる。昏い瞳が見下ろして、少しだけ息をのんだ。赤と緑の虹彩をじっと見つめながら、骨が軋みそうなほど手を握りしめる。
湊が今何を考えているのかまるでわからない。それでも、離してはいけない気がした。隣にいるのに、意識がそこにないような錯覚。
「ーーーー…私は、人に近づきすぎたのかも、知れないね」
「……元は人だろう」
「ーーそう、だね。あぁ、お前は優しすぎるね」
「湊」
小さく名前を呼んで、開いた手で湊の頬に手を伸ばした。指先が触れると、湊が僅かに屈みながらその手に手を重ねる。ひんやりとした手のひらに、触れた頬に、少しだけ腹に溜まった息を吐き出した。
ぐつぐつと茹だるような感情はまだ腹のずっと奥に居座ったままで、名前がわからない。
「……なにかな」
くすりと笑う湊の瞳はもう、昏くない。
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