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第3話

 十月もそろそろ終わる頃という秋晴れのある日。  午前の講義が終わり、食堂に行くと早瀬が一人で座っていた。  早瀬と二人になるのは嫌だった。もちろんそれは、これ以上好きになりたくないから。それを気付かれてしまわないか怖くて仕方ないから。  だからといって、別の席に一人で行くことも出来ない。意識していることを気付かせることになるから。  行き止まりだと分かっているのに進む道しかない。  だから、いつも通り早瀬の前に当り前のように座ると俺は笑顔を浮かべる。 「大倉たち、まだなんだ?」 「ああ、今日はまだ見ないな」  早瀬が顔を上げて俺を見る。  ただそれだけなのに息苦しくなる。そんなことくらいはもう慣れきっている。おくびにも出さずに、俺は昼食を食べ始める。  もう食べ終わっている早瀬は椅子の背にのけぞって大きく伸びをしていた。そのまま窓の外に目をやっている。  外を眺めながら早瀬が言う。 「今日めちゃくちゃ天気良くね?」 「え?あぁ。ホントだ、そうだね」  言われて俺も窓を見る。残暑の頃よりはだいぶ穏やかになった日差しが、眩しく構内の木々に降り注いでいる。空も少し前より高くなった気がする。 「外、気持ち良さそう」  ひとりごとのつもりで呟くと、 「な?やっぱそう思うよな」  早瀬が妙に嬉しそうに答えた。 「このまま午後さぼって同好会らしい事しねえ?」 「同好会らしい事?」 「ぶらり旅」  そういえばそんな名前だった。今まで一度も旅に出掛けた試しはなかったけど。  それよりも、困った事態だ。  今まで何とか二人きりで遊びに行く流れにならないようにしてきた。  それなのに、今聞きようによっては自分でどこかに行きたいような発言をしたせいで早瀬の誘いを断りにくい。しかもこの後、俺に何も予定はない。 「こんな旅日和めったにねえよ。行こうぜ」  それを聞き、旅日和って、やたらおっさんくさくないか?と考えて思わず笑ってしまう。  早瀬の中ではそれを了解と受け取ったようで、もう立ち上がっている。  早瀬の行動が珍しく少し強引な気がするが、この雰囲気では行かないと言えなかった。仕方がないので着いて行く。  食堂から並んで出る時にやっぱり俺は動揺していたらしい。 「二人だけって珍しいな」  初めてなのを分かっていながらそんな事を口にしていた。 「……ていうか、初めてだよ」  意外な事を言われたような顔で早瀬は俺を見た。  そんな事、早瀬が気にしていると思わなかった。そうだな、くらいの返答が返ってくると思っていた。  なおさら俺は知らなかった振りをしなければならなくなる。 「そうだっけ?」 「そうじゃん」  拗ねたように返された。  反応に困って俺は話を逸らす。 「どこ行くか決まってんの?」 「ぶらり旅だもん、決まってねえよ」  そして早瀬は少し考えて、 「とりあえず駅行ってみようぜ」  と言った。  駅に着くと早瀬は近場にある路線図を見上げた。  たいして良く見ていたとも思えなかったが、 「じゃあ、まずこの電車の終点まで乗ってみようぜ」  と路線図を指差す。  それは都内から郊外に出るかなり距離の長い路線の電車で、今いるところから終点までは二時間位は掛かるような場所だった。 「まず、って言う距離じゃないだろそれ」 「あんまり考え込むなよ。ぶらり旅じゃなくなるだろ」 「まあそう言うならいいけど」 「別に今日中に帰れなくなっても問題ないだろ」  さらっと言ってくれる。どこまで本気か分からないが、冗談じゃない。そんなの何が何でも避けたい状況だ。 「あるよ!大ありだよ。どこまで行くつもりだよ」  俺の抗議を聞いているのか早瀬はさっさと改札を通ってしまう。  平日の真っ昼間といっても都内の事なので車内は大して空いている訳でもない。  ドアに二人で寄りかかって春木先輩は何であんな変人なのかとか、ゲームで超レアなアイテムが出た、とかそんな他愛もない話をする。  そう言えば最近、大倉が春木先輩に連れて行ってもらった合コンで、いい雰囲気になった女の子がいたが結局フられたと言っていた。  その時に「早瀬が合コンに行ったって話聞いた事ないけど、なんであいつ彼女作んないんだ」と不思議がっていたのを思い出した。  そんな事を考えている間にいつの間にか席も空き出し、俺達はボックス席の窓側に向かい合って座った。 「ねえ、なんで早瀬って彼女作んないの?」  大倉も言っていたが背も高いし、いかにもモテそうな早瀬が彼女を作らない理由って何だ。  普段からあまり自分を見せる方ではない早瀬の事だから、居ないと言いながらどこかに凄い美人の彼女が居るんじゃねえの、と大倉は疑っていた。妙に納得できる言い分だった。  俺はどうせならそんな人がいてくれれば良い、そう思った。  だから思わず聞いていた。 「どうしてそんなこと聞きたいの?」  その方がずっと諦めやすいから……言えるわけがない。 「どうしてって……二人きりだし話しやすいだろうと思って」  その場しのぎで理由にならない理由をつける。 「それはどうして今聞いたかだろ。俺が聞いてんのは……」  不意に言葉を切って面白くなさそうに外の景色に目をやってしまう。  言い訳の仕方が、そんなにマズかっただろうか。  これではもう口を開いてくれないだろうなと思う。  だが、あーもうというため息のような声と共に 「好きな奴が居るからだよ」  そんな声が聞こえてきた。  ズキンと胸の辺りが痛む。  居れば良いと思いながら、好きな人がいるんだと考えただけで。  付き合っていなくても、俺の望む答えが返ってきたはずなのに。 「そんな事、初めて聞いた」  それだけ言うので精一杯だった。 「初めて言ったんだよ」  少し怒ったような声。 「じゃあさ、朝比奈は?なんで作んねーんだよ」 「俺は……合コン行ってもモテないし」 「チビで天パだからじゃね?」  痛い所を抉ってくる。この話題がよほど気に障ったのか容赦が無い。  早瀬を諦めて女の子を好きになれるかもしれない。そんな期待があるから合コン自体は何回か行っている。一回目の時は酷い目にあったが、春木先輩にはお世話になっている。先輩はどういう人脈か女の子にはとても顔が広い。  俺の合コンでの評価は主に  ふわふわで(髪の毛のことだろう)  ちっちゃくて(言うまでもなく身長だ)  かわいい〜(これに至っては意味が分からない)  と抽象的なもので、そもそもどれも褒められてるのかどうかも怪しい。俺は女性から見てペット感覚以上にはなれないらしい。 「その上鈍いもんなお前」  早瀬は最後にもう一刺し、放り出すように言葉を投げてまた外に目線を戻す。  この話は相当したくなさそうだ。  俺も見たいわけでもないが外の景色に目を向けた。  そうこうしている内に終点に着いたらしく車内アナウンスが流れている。 「次だな」 「うん」 「見て、駅から海が近ぇの」  早瀬がいつの間に調べていたのか、スマホの画面を俺に見せてくる。 「マジ?海?」  覗き込むようにして二人で小さな液晶を見る。確かに近そうだ。徒歩でもなんとか行けそうな距離だった。 「行く?」  疑問系だが行く気満々の目で早瀬が俺を見る。 「行く」  元々なにをしに来た訳ではない。目的が出来て行かない理由がない。  シーズンオフで平日の昼下がり、海のある駅はホームに降り立つ人もまばらだった。改札で早瀬が駅員さんに海までの距離を尋ねている。 「ゆっくり歩いて三十分位だって。しかも南口から出て真っ直ぐ行けば嫌でも着くってよ」 「散歩にちょうどいいな」  構内のコンビニで飲み物やおやつを買い込み外に出てみると、微かに潮の香りがする気がした。そう言うと、 「流石にまだ海のにおいはしないんじゃね?」  だが早瀬もその場で深呼吸を繰り返し首をかしげる。 「……なんか、する気がしてきた」  そんな早瀬に俺は笑いながら歩き出した。  町並みはいつも通っている都心とはスケール感が違っていた。やはり土地があるせいなんだろうか。道路は歩道にも十分なスペースが取ってあるし、建っている家々もみっちり詰まっておらず、どこか余裕がある。  少し目線を上げるだけで、遮られずに青空が見える。そこで雲があてどもなく、ゆらゆらとしている。  早瀬は背が高い故の癖なのか少し猫背で、やっぱりゆらゆらと歩いている。掴み所のない所が雲みたいだ。  早瀬に言わせるとチビな俺が、必然的に見上げているのに気が付くと「なに」と顔を覗き込んできた。  別にぼんやり考え事をしていただけなので答える内容も無く、とっさに早瀬が持ってくれているコンビニの袋に目をやる。  俺の目線の先に気が付くと、持っている手を高く挙げ 「おやつは着くまでやらねーぞ」  と身体ごと遠ざける。 「おやつが欲しい訳じゃねえよ!」 「じゃあ何が欲しいんだよ」 「別に何も欲しくねえよ」  いつからか俺が何かを欲しがっている話になっている。 「何も欲しくなさそうな目じゃなかったけどな」  早瀬は急に声のトーンを下げ本気とも冗談とも取れない言葉をぼそっと呟く。  あれ?直前に考えてたのは何だった?そんな風に言われてしまうと困惑する。なにか早瀬に感づかれるような事を考えてただろうか。 「……どんな目だよ」  自分の記憶に自信がないので俺も同じようにぼそりと独り言のように呟く。 「あんな感じ」  気持ちを不安にさせるニヤニヤ顔の早瀬が指さす方に目をやると、通りに座る猫がこちらを見ていた。  良く見るとさすが海の近くだからなのか、あちらにもこちらにも猫が歩いたり丸まったりしている。 「あれ、完全にエサ欲しがってるじゃん。違うって言ってんだろ」  からかわれているのに気が付き、少しムキになった。  早瀬は空を仰いで笑っている。 「ばーか」  と言ってやるが、やっぱり俺もおかしくなってきて一緒に笑う。 「ねえ、もうあの向こう海じゃね?」  ネットの張られた防砂林はもう目の前だ。耳を澄まさなくても波の音が聞こえてくる。  ここまで来ると否が応にもテンションが上がっていく。 「早く行こうよ」 「海は逃げねえよ」  すぐそこまで来ているのに全く急ぐ気配のない早瀬に苛立つ俺は、その背中を無理やり押して小走りさせる。  本当は手を取って走りたいが、そうしてOKなのかNGなのか、ボーダーが分からないから迷ってしまって出来ない。  海への入り口は狭い林の切れ目だった。林道は少し曲がっていて先が見えずにやきもきする。  そして、目の前が突然ひらけた。  空、砂浜、海。  見えるのはそれだけになった。潮の香りも一層濃い。 「そっか、海ってこうだった……」  随分久しぶりに来たので、こんなに圧倒されるものだとは忘れていた。月並みだがその光景に言葉を失くした。  打ち寄せて、砕けて、巻き込んで引いていく。無限に繰り返される波の舞に飽きる事なく見入ってしまう。  多分、結構長い時間そのままぼーっとしていたんだと思う。  そのあいだ早瀬は一言も喋らなかった。  不意に手を繋がれて我に返った。  さっきの葛藤がバカバカしく思えるほど簡単に、早瀬は俺の手を引きながら、ゆっくりと歩き出す。 「早瀬は、有りなんだ、これ」  早瀬がやっぱりゆっくりと振り向いて、何?という風に首をかしげる。  俺は繋いだ手を目の高さまで持ち上げる。 「手?嫌?」  そんなはずは、ない。首を横に振る。 「じゃあ問題ないな」  横顔で笑って砂浜をまた歩き出す。  俺には境界線が見えなくてこんなに苦しいのに、早瀬はそもそも境界線なんかないように振る舞う。どうしていいか分からない。  なんでこんな風に手を繋いで歩いているんだろう。  距離はあるけど周りには散歩している人たちだって結構いる。  何か見えでもしたのか早瀬が海を向いて立ち止まる。  俺も同じように立ち止まる。  ループする波の音が心地良い。  太陽に照らされるキラキラした水面が綺麗すぎて思わず繋いでいる手をぎゅっと握ってしまった。しまった、と思ったがもう遅かった。そんな事するつもりはまるでなかったんだ。  でも早瀬は、別段何でもない事のように同じように握り返してきた。  いっその事振り払って欲しかった。  でも泣きたいくらい嬉しかった──。

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