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Confusion 柳松 織

──これは、どうしたものか。 人差し指で自身の唇をなぞる。 思考を巡らせている時の貴之の癖だ。 そして口寂しくなったそこに、火をつけたはずの煙草は存在していなかった。 「あっ。」 足元で白煙を漂わせるそれを慌てて潰す。いつ口から落下したのか覚えていない、それほど目の前の光景は異質で全神経を持っていかれていた。 ───パンッ!! 奮い立たせるように頬を叩き、狼だった男に恐る恐る近寄る。 「……おい。」 しゃがみこむが触れはしない。何度も声をかけるが全く返事もない。 「どうしたものかな。」 上下する胸が生の息吹を教えてくれるが、二人の間を駆け抜ける寒帯の冷気によってそれすらも攫われそうになっている。 それでも指を伸ばすことが出来ないのは、謎の変貌を遂げた男の烏の子色の逞しい身体のせい。見惚れてしまうほどの姿に同性なのに触れるのを躊躇ってしまう。 「はぁ……。」 困惑を纏った吐息が先程より凍てつく。 「このまま放置するわけにいかないし……俺のせいだしな。」 既に絶命した狼が視界の隅に入り、周囲の森(タイガ)に身体を刺されているような気分に陥る。そしてそれに急かされるように残った命への責任感が膨張していく。 「お前の為だからな。」 自分に言い聞かせるように言い訳をしてようやく手を伸ばした。狭い背中からはみ出る程の身体を担ぎ、いつもより足が深く雪の中に沈む。 そして男をゆっくりと車の後部座席に寝かせ、ロッジへとオフロードのエンジンをかけた。 「……」 ちらりと後部座席を見る。 男はまだ目を覚まさない。 この背徳感……人攫いでもしている気分だ。 ──エンジン音の隙間で届く心臓の鼓動がうるさい。 雪がちらつき始めた。 なんとか視界が悪くなる前にロッジに辿り着いた貴之は、氷点下の中、汗を滲ませながら男を再び担ぐ。 頬に舞い落ちた雪は汗と混ざり、すぐさま薄い膜を張っていく。 高床式のロッジの階段を踏みしめるように登り、「ただいま。」と返事のない挨拶を済ませようやく帰宅と相成った。 ソファーへ下ろされた男はまだ目を覚まさない。冷えてしまった身体に毛布をかけ、石油ストーブに火を灯す。 そして向かいのソファーに自身も腰掛けたが、どうも落ち着かない。 原因は分かっている。 「……」 いくら相手が気を失っているとはいえ、見知らぬ存在の静寂に不安を感じているのだ。 「身体の調子はどうだ?」「何か食うか?」「お前は何者だ。」聞きたいことは沢山あるのにこの男が目覚めることがひどく恐ろしい。 それを助長するように石油ストーブの炎が揺れる。更にちらついていた雪は吹雪に変わり、窓がガタガタと震えだした。 ──天気の回復。 ──男の身体の回復。 そして、できれば目覚めて欲しくない事を祈りながら手を合わせた。 それかいっその事、目覚めても自分を突き飛ばしてここを出ていってくれと願ってしまう。 排気口から忍び込む低い囁きは吹雪の風なり。それが何か悪い事を予感させる。それを払拭する為に合わせた手に頭を預け俯く。 そして……深呼吸をしてゆっくりと目を開ける。 「ああ神も仏もないな。」 落胆と共に出た声はとても小さい声。 しかしその声に反応して、特徴的な色彩をした瞳が貴之を捉えていた。 せめてこのまま出ていってくれと思ったが、貴之の意に反して男は毛布を身体から滑らせてこちらに近寄ってきた。 「お、おい。」 両手を前に出し警戒心を表すが、男はまだおぼつかない足取りでヨタヨタと歩いてくる。 そして貴之の横に座り、肩に頭を乗せた。そのままスリスリと額を擦りつけ、鼻先を貴之の首元に寄せ体臭を吸い込む。何度も、何度も。 「くすぐったい……」 貴之が目を細める。 男は首の後、鎖骨、服の中にまで鼻を突っ込もうとする。 ──まるで、動物だ。 しばらく許していた貴之だったが、ぬるりと頬に舌を這わされ声を上げてしまった。 「うわぁぁぁ!!」 声と共に勢いよく身を引いた貴之。 しかし、男はさらに飛び上がり、自身が横たわっていたソファーまで後ずさる。 驚愕の表情が徐々に威嚇へ色を変える。歯をむき出しにし、ソファーの上で四つん這いになり低く唸り、鋭い眼光が貴之を睨みつけている。 どうやら先程は寝ぼけていたようだ。 そう理解できるほど貴之は不思議なくらい冷静になっていた。 目の前の男が人間なのに動物のようだからか。動物の相手は貴之の得意とするところだ。 「ち、ち、ち。」 貴之は腰を低くし、舌を鳴らしながら男に近寄る。 「ああ悪い。人間だな。」 人間なのに動物の本能をむき出しにする男に扱い方の調子が狂う。 「……こんばんは。身体の調子はどうだ?」 男の犬歯が光り、歯茎が露になる。 「俺は危険なやつじゃない。」 一歩をさらに踏み出すが、男がソファーに爪を食い込ませた。 「ダメか……」 全く収まることを知らない警戒心。 その後も「俺はタカユキ サトーだ。」「どこか痛むか?」と色々尋ねたが逆効果。終いには貴之が狼の遠吠えを真似したせいで噛み付くような仕草をお見舞いされた。 警戒を解く様子も逃げる様子も見せない男に貴之は身を引いた。 押してダメならと、冷蔵庫にある食べ物で適当に調理を始める。 簡単に鹿肉と葉物野菜を炒めた物を皿に盛り、床に置いた。 美味しそうな香りと、温かい湯気に一瞬だけ気を緩めた男。 しかし貴之が皿に触れると警戒を強める。 「好きに食え。」 そう言い残し、貴之はシャワールームへと姿を消す。 こっそり扉から様子を伺うと、男は綻んだ表情で食事を始めていた。 「なんだあんな顔も出来るんじゃないか。」 と、ボソリと呟けば視線がこちらに向く。人間の姿でも狼の特徴が残っているのか?と研究者らしい考察をしながら貴之はシャワーの温かい水圧に疲労をほぐした。

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