3 / 6

Compromise めろんぱん

翌朝、貴之は頬を引きつらせた。 少ない貴之の私服と仕事着がクローゼットから丸ごと引っ張り出されて山積みになり、その中になぜか白い綿がちらほら見える。その中心で丸くなって眠っているのは、昨夜貴之が拾ってきた男もとい人狼だ。 最低限の生活用品しかないはずの部屋が、どうしたらこんなにも散らかるというのか。 この際四方八方に散らばった服は許そう。なぜ、こんなにも綿が散乱しているのかだ。 少し見回すとその綿の出所はすぐにわかった。 寝る為だけの殺風景な部屋の中で唯一貴之が気に入って憩いの場所にしていた、ソファだ。 無残に引き裂かれて中から綿を引き摺り出されてペシャンコになっている。 「…はぁ…」 人狼は穏やかな寝息をたてて眠っている。ちらりと横目にその寝顔を見ると、自分よりも随分と幼く見えた。 「つっても俺ももう35だな。」 脳裏によぎる、日本に残してきた母の顔。もう随分会っていないが、最後に会った時でさえも腰が曲がって随分とその背中が小さく感じたものだった。 元気にしているだろうか。 ボリボリと頭を掻きながらタバコを一本咥えてキッチンに立つと、貴之はトーストとコーヒーだけの朝食を用意しにキッチンに立った。 程なくして男は目を覚ましたが、夜のうちに勝手に作った巣、いや寝床から出て来やしない。 貴之はいい加減苛立って、男のために用意したトーストとコーヒー、特別サービスで出してやったというのに手付かずのヨーグルトを下げた。 「おい。」 貴之は低い声で呼びかける。男の目つきがより鋭くなった。 「俺は仕事に行くからな。出て行くんなら鍵掛けてポストに入れておけよ。」 男の鋭い視線を背中に浴びながらの出勤は、普段の3割り増しで憂鬱だった。 ─── その日の帰り、貴之は近所の小汚いこじんまりとした精肉店に立ち寄った。 貴之は低血圧だ。 今朝は部屋の惨状と男の警戒心につい苛立ってあんなことを言ったが、元はと言えば貴之があの狼を轢いたのが原因。せめてきちんと食事は取らせて、本人が自ら群れに帰るまでは面倒を見る義務があるだろう。 もしかしたら家にもういないかもしれない人狼のための食材探しは難航している。 鶏肉、豚肉、牛肉、鹿肉、狼なんだから肉食だろうが、どれなら食べるのだろう。貴之は片っ端から籠にいれ、新聞から少しも視線を上げない店主に小銭を押し付けて早々に帰宅した。 部屋に明かりが点いている。ポストに鍵は入っていない。 ドアを開けると、昨夜出来た狼の寝床にこんもりと毛布の山ができていた。アレはどうみても貴之の毛布だ。 「おい。寝てんのか?」 ピクン。 小さな動きを貴之は見逃さなかった。 「ほら、色々肉買ってきたから選べ。腹減ってんじゃないのか。」 もぞもぞと毛布が蠢き、ちょろりと不思議な色の瞳が覗いた。それは貴之を見て、貴之の持つ袋を見る。再びもぞもぞと蠢いて、今度は鼻先を袋に突っ込む。袋の匂いを嗅ぐと、中身がなんなのか察したようで、貴之が広げてみせた袋の中身をそっと漁り始めた。 そして手に取ったのは、鹿肉。 「よりにもよって鹿かよ!」 買ってきたはいいが鹿肉の調理方法なんて知らない。狼なら生で食べても問題ないかもしれないが、今は人間で、人間の内臓だ。 貴之はスマホで鹿肉の調理方法を調べたものの、凝ったものが作れるはずもなく、結局塩胡椒で焼いただけのそれを差し出す羽目になった。 男はスンスンと匂いを嗅ぎ、ちらりと貴之を見る。昨日よりは幾分マシだが、未だその目の中の警戒の色は強い。貴之はこんがり焼けた鹿肉を一切れ摘み、己の口に放り込んだ。 美味くはなかった。 「ほら、毒なんかねぇよ。食え。」 噛み切りにくいそれをやっと飲み込んだところで、男は漸く納得したようで毛布から這い出てくると肉を食べ始めた。 男の頬が緩む。 昨日といい今日といい、食べている時の顔は可愛げがあった。 「…美味い?」 男がちらりと視線だけ寄越す。食事の手は止めない。山盛りあった肉はあっという間になくなっていった。 フゥ、と男が満足気なため息を一つつく。大分表情も和らいできていた。 「お粗末様。美味かったか?」 再び貴之が尋ねると、男はまたちらりと視線を寄越し、そして小さく、しかし確かに頷いた。 貴之は少し目を見張り、そして口元を緩めた。 「…なぁ、お前名前は?」 男は答えない。 今、美味かったかという問いに答えたところを見ると、言葉はある程度理解しているようだ。名を明かすほど、まだ気を許したわけではないということか。 「タカユキ。」 貴之は自分を指差し、ハッキリゆっくりとした口調で告げる。次に男を指差す。 「お前は?」 男は答えない。 が、口を僅かに開いた。 「…ア、アゥ…」 貴之は今度こそ目を見開いた。 少し乗り出して、再び自分を指差す。 「タカユキ。ああいや、違うな。タカ。タカ。言ってみろ。」 「ア…ゥア」 「タ、カ。」 「タ、ア。」 言葉は理解している。が、発語が出来ない。貴之は何度も何度も根気強くタカと自分を指差す。男も懸命に発音しようとする。 何度繰り返したかもう数えきれなくなったころ、ついに男ははっきりと口にした。 「タカ。」 と。 貴之は嬉しくなって、ぐしゃぐしゃと男の乱雑に伸びた髪をかき混ぜた。やってから、しまった!と思ったが、男は逃げなかった。 貴之は、今度は男を指差した。 「お前は?」 男はゆっくりと口を開き、考えるように少し首を傾けた。どうしたら伝わるかを考えているように見えた。 「ア、ゥシュ」 「アウス?」 男はふるふると首を振る。もう一回、と貴之が促すと、男は口を開いたまま難しい顔をして声を出す。母音が多い男の発音から一つの名前を探り当てることは難しかったが、貴之は諦めなかった。 そしてやはり何度目の応酬かわからない程繰り返したころ。 「マックス?」 一つの名前に辿り着いた。 男が目を輝かせて何度も頷くと、貴之も満面の笑みを浮かべた。 「よろしくな、マックス。」 奇妙な共同生活が始まった。

ともだちにシェアしよう!