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前日ー街中②
「――中也? 何故君が泣くんだい?」
歪む視界の奥、普段と何一つ変わらぬ彼奴の姿が在った。内側から湧き上がる其の波は目の前の空間を侵食していく。溜まりに溜まった其れが、唐突に決壊したかと思えば温かい液体が頬を伝い零れ落ちる。
其れでも枯渇を知らぬよう、幾らでも涙は我先にと光を求めて、暗い体内から飛び出して行く。
――光ヲ求メテ。
では、己の求める物は?
目の前の男は茫然と立ち尽くして居るかのように見えた。此の男にとって「予想外」など縁遠い言葉だ。
森羅万象と云い切っても善い。百凡理を其の立派な頭脳とやらで読み切り予測し、小さな小石に躓いた事で百米先の事故すら判る男だ。茫然と、なんて何よりも似合わない。
見れば、其の太宰の頬にも伝う一筋の光。
往来が喧騒が幾ら二人を包み込んでいようとも、其の空間だけが切り取られたかのように静かだった。
「……手前だって、泣いてんじゃねェか」
「嘘だあ……」
「嘘じゃねェよ」
其の言葉こそ予想外とでも云うかのように太宰は襯衣の袖口で目許を拭う。少し湿った其れが何よりの証拠であると解ると、信じられないと妖怪でも見るかのように視線を中也へと移す。
「此れは汗」
「手前の目玉は汗掻くのか」
「特異体質なんだ」
「嘘も大概にしやがれ」
此れ以上は幾ら云おうと暖簾に腕押し、太宰は決して自らが泣いた事を認めようとはしないだろう。生憎太宰のそういった気性に振り回される事も、中也には日常茶飯事だった。
一生埋まらぬ心の穴を抱いた儘の太宰は、いつでも其れを満たす物を探して居る。いつだって其れを探し求め、埋める事が出来ないと判れば愛しき傷を抱えた儘此処では無い別の世界へと旅立つのだろう。
其れは時に、中也に対して終わる事の無い責を強いる事にも為る。中也が諦めて仕舞えば其の瞬間太宰は解放され二度と手の届かない世界へと向かうだろう。太宰にとっては其の方が幸せなのでは無いだろうか、中也がそう考えたのも一度や二度の事では無い。
ただ確かに愛を誓う太宰の言葉だけは本物であると、中也が信じたいから信じるだけの事だった。
何方かが諦めるだけで容易く崩壊する砂上の関係。
「来いよ、死ぬ事が生温いって思える程の地獄を見せてやる」
中也は太宰の襟元を両手で掴む。其処に太宰の拒否権は存在しなかった。
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