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ひび割れた記憶

――あれは冷たい雨が降る夕方だった。その日は、兄貴は塾に行っていた。もちろん降り始めだから傘は持っていなかった。幼かった俺は窓辺で外の景色を眺めながら帰って来ない兄貴の事を不意に思った。 こんな寒空の下で兄貴が雨に濡れたら可哀想だと思い。片手に自分の傘を持ちながら、もう片方の手に白い傘を持って駅まで向かった。 べつに何かの見返りが欲しかったワケじゃない。ただ単に兄貴が雨に濡れたら『可哀想』と思って行動しただけだった。 1人で駅の外で待っていると改札口から兄貴の姿が見えた。兄貴は自分の傘なんか持って無く、全身が雨に濡れていた。俺は直ぐに兄貴のもとに駆け寄ると自分から傘を手渡そうとした。兄貴は俺が傘を持ったまま、改札口の外で待っていたなんて知らなかった。その時の顔は凄く驚いていた。  俺は兄貴の前で無邪気にこう言った。 「兄ちゃん、ほら傘!」  そう言って傘を手渡そうとした。俺は心の中で僅かに期待した。兄貴が傘を持ってきた自分に、優しく笑いかけて頭を撫でて褒めてくれる。そんな『期待』が心の何処かにあった。  

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