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ep.3 『幼いアンチテーゼ』

「ねえ、夏来…」 「ん?」 「…あの、さ………」 「なんだよ?」 だめだ。訊いたらだめだ。 訊いたら全てが終わってしまうかもしれない。 今日と同じ明日が、来なくなってしまうかもしれない。 それほどに壊れやすいものなんだ――。 「何でもない」 「えぇ~っ…  あれだけはっきり名前呼んどいてそりゃないよ」 「…ごめん。本当に何でもないんだ」 「そうか…? ならいいけどさ」 「そうめん茹でるから、タイマーかけてくれる? 3分」 「へいへい」 「………」 僕達の関係はあまりにも曖昧で、 1秒後には泡となって消えてしまっても、何もおかしくないほどのものだった。 夏来が誰なのかと問われたら、 「ただ毎日僕の家に居る人」としか答えようがなかっただろう。 恋人になると約束したわけでもない。 一緒に住もうとさえ言ったことがない。 僕達はお互いに、お互いのことを何も聞かなかった。 だから、 夏来が僕のことをどう思っているのかもわからない。 あの店で僕に声をかけてきたことも、 あの夜を皮切りに、何度も彼の方から僕を求めてくることも、 僕にとってはそれはとても大きなことであっても、 夏来のような人だったら、そんなの全部何でもないことなのかもしれない。 はっきり言ってしまえば、 あの店に居たからといって必ずしも男が好きだとは限らない。 たとえばそういった性的趣向があるだけで、 本命の恋人は女性という可能性だって十分にある。 常連客の中には妻子持ちの人も居るというのは確か、 店の公式ブログの情報だったろうか。 勿論、本当に男が好きなのだとしても、 僕以外で男の恋人が居ることだっていくらでもあり得る話だ。 それでも僕は何も知らない。 何も知らないから、今もこうして夏来の隣に居られるんだ。 今この瞬間を、どうしても手放したくなかった。 その先のことなんか、考えたくなかったんだ。 「…お?  何だよ、いいのあるじゃん」 「え?」 夏来が急に立ち上がり本棚に手を伸ばしたことによって、 自分がぽーっと呆けていたことに気が付いた。 「これこれ~♪」 「…砂時計?」 何を持ってくるのかと思えば、 わざわざ本棚の高い所から取り出してまで、 砂時計なんかを嬉々としてテーブルの真ん中に置いた。 いつものことながら、夏来のすることはよくわからない。 「これ、前からちょっと気になってはいたんだよなぁ。  何で砂時計なんて部屋に置いてるの?」 「何でってことはないけど…」 本当に、何でってことはなかった。 引っ越しの荷解き作業の時に雑貨屋をうろついていたら、 何となく目にとまって何となく買っただけだ。 妙に安かったし…200円ぐらいだったよな、確か。 「コイツ多分3分計だよな?  これ使って計ってやるから、早よ茹でてこい」 「えぇ? 音鳴らないじゃないか」 「ずっと見てりゃいいじゃん」 「………」 手のひらサイズの砂時計を間に挟んで、 僕達は小さなテーブルに向かい合って座っていた。 鮮やかなアクアブルーの砂が、 さらさらと音が聴こえてきそうな優雅さで上から下へと落ちてゆく。 少しずつ、少しずつ…。 2人の人間にこれほど注目されるのは、きっとコイツも初めてだろうな…なんて、 ついくだらないことを考えてしまう。 「ほら、同じ3分待つだけでも、ぐんと楽しくなるだろ?」 「ならないよ…」 「ビービー鳴るだけのタイマーに比べりゃ、  コイツの方がよっぽど色気がある」 「………」 「まぁたそんな顔して。  いいか? 若波ちゃんはもっと1分1秒を楽しむことを覚えるべきだ!」 「…はぁ……」 気のない返事をすると、 夏来はなぜか、少しだけ優しい視線を向けてきた。 「綺麗だと思ったから買ったんだろ?」 「…?」 急にどうしたんだろう…? 流れ落ちるアクアブルーを見つめていた夏来の視線は、 どこを見るでもなく、ぼんやりと斜め下の方へ落とされた。 僕はそんな彼を視界に入れつつも、引き続き砂時計に注目していた。 だって僕まで目を離したら、素麺が伸びてしまう。 「必要なものしか持たない生き方も身軽でいいと思うけど、  無くても困らないものを手許に置いておきたいとか、  そういう感性って大事だと思う」 「………」 「なぁんてな」 …それは、本当に砂時計の話なのだろうか? 不安になることを言わないで、なんて言うことさえも、 僕には許されないと思っていた。 夏来が僕のことをどう思っているのかわからないのなら、 僕の方も同じでなければいけない。 均等が崩れてしまったら、その瞬間にこの関係は終わる。 そんな気がしていたんだ。 ◇◆◇◆◇ 『こうして、イカロスは死んでしまったけれど、 彼が見せた勇気は永遠に語り継がれることになったのよ。 太陽をも恐れず羽ばたく姿は、きっと美しかったのでしょうね』 小学校の頃、 音楽の授業で習った歌に、どうしても理解できない話があった。 先生はこの歌の主人公を勇気があると褒め称え、 純真な子供たちもそれに同調するのが当たり前のような空気になっていた。 しかし僕にはわからなかった。 己の欲望を抑えきれずに勝手に自滅したこの男の何が勇気だったというのだろう? 近付き過ぎてはいけないと言われていたにも関わらず、 太陽に憧れるあまり、ただの人である己の身分もわきまえず、 分不相応にその大きな存在に近付こうとした。 ひねくれた子供だった僕には、それは勇気ではなくただの愚行としか思えなかった。 勿論そんなこと、決して口には出さなかったけれど。

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