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ep.6 『夏来』

海を見ていた。 海よりももっとずっと見たいものが、すぐ隣にあるのに。 いま夏来の顔を見たら、泣いてしまいそうだから。 彼が用意したロケーションとやらが、こんな形で役に立つとは、皮肉な話だけれど。 それでも、海を見ることで誤魔化し続けた。 僕は不安な顔をしているんじゃないんですよ。 水面に反射する月の光が眩しくて、 …眩しくて、目が眩んでいるだけなんですからね。 きみがこんな場所を選ぶからいけないんだ。 アパートに帰ったら、文句を言ってやるからな。 今度はもっとましな場所に連れて行け!、って。 秋に紅葉が見られるところとか。 冬にイルミネーションが見られるところとか。 そういう場所に、連れて行け……って、言ってやるんだ――。 「まずは報告から。  このたびなんと、貯金が目標額に到達しました!」 ――ん…? 「……  …え? 貯金…?」 「今までコツコツ貯めてた金が、  この夏で一気に目標額にいったんだよ!」 「??  え、何…? それが何だって……」 「これでついに…  彼女に指輪を買ってあげることができました!」 「………」 「――え?」 強い風がひとつ吹いて、波が唸り声を上げた。 夏来は波音が止むのを待って一拍おいた後、 変わらぬ調子で話を続けた。 「もちろんまだ学生だから、結婚は全然先の話なんだけどさ」 「え、…?」 「でも、決めてたんだよ。  ちゃんとした指輪を買えるだけの額を、この夏で必ず貯金する。  そして指輪を買ったら、彼女にプロポーズするって!」 「――」 「こんなに早く達成できたのって、ほんっと若波ちゃんのおかげなんだよ!  この夏、俺のことすげー支えてくれて、マジありがとう!!」 「……  …え…? え……?」 「今まで長いこと居候してて、ほんとすみませんでした!  近日中には荷物まとめて、なるべく早く出るようにするから!」 ――頭が真っ白になっていた。 プロポーズ? 貯金? ――僕のおかげ…? それは一体どういうこと…? 回らなくなった頭で、必死に思考を巡らせる。 夏来はこの夏、ほぼ毎日僕の部屋で暮らしていた。 その間…… ――食費も、光熱費も、生活に必要なその他雑費も、 夏来からは1円ももらっていない……。 「夏…来……  …それ、って………」 頭がくらくらした。 立っているのも危なくなってきたので、 もう砂浜に座ってしまうことにした。 「報告は以上。  …で、俺がどうしても伝えたかったのは、ここから」 「……」 何も聞く気になどならなかった。 夏来にとって僕は何なのだろうとずっと考えてきた。 金だった。 夏来にとって僕は金だったんだ。 それがわかってしまった今、 これ以上何の話を聞けというのだろう…? 「あ…っと、その前に。まずこれ返しておかないとな」 急に何かを思い出したように、夏来は肩に掛けていた鞄をゴソゴソし始めた。 …あると思った場所に何もなかったようで、 一瞬「やべぇ」という顔をしたのを見逃さなかったが、 更に奥まで手を突っ込んでゴソゴソやったところで無事に発見したらしい。 ――僕の前に、一枚の封筒が差し出された。 状況がわからず、ただ封筒を見つめていると、 見かねた様子で夏来が自ら封を切って中身を取り出した。 「……  …は?」 「計算が合ってるか自信ないけど、  今までの食費と光熱費半分と、その他雑費も大体半分。  あと忘れちゃいけない、家賃半分」 「…え……?  どういうこと…? 貯金は…?」 「これはフツーに生活してたらフツーに支払うフツーの生活費だろ。  それを差し引いた上で貯金ができたんだよ。  あのねぇ若波ちゃん…いくら俺だってこれぐらい当然支払いますって!」 「え…じゃ、じゃあ、僕のおかげって……一体どういう……」 僕が封筒を受け取ったのを確認すると、 正面に居た夏来は満足そうに笑って隣に座り直した。 その瞳には、再び夜の海が映っている。 本当に夏来の瞳は、何を映しても恐ろしいほど美しい。 「俺さ、これで結構、普通の社会に適応できなくて。  まともなバイトしても、なかなか続かないんだわ。  単純に仕事ができないの。使えない奴なのですよ」 「本当に…?」 とてもそんな風には見えないのだけれど…。 突然始まった意外な話に、 離れていた気持ちが少しずつついていった。 「本当なんだよこれが。意外だろ?」 「うん…。  君は社交的だし、どんな場でも上手くやってるイメージだった」 「……そう。社交的なのはその通りだと思う。  特に――男の相手は得意なんだ」 「――」 「事務も飲食も販売も、何をやってもダメダメだったけど。  そんな俺でも手っ取り早く稼げる割の良いシゴトがあったんだよ」 予想外の方向に話が転がって、 やっとついていけるようになっていた頭が、また白紙に戻ってしまった。 一体彼は何の話をしているのだろう。 こんなことを語られている僕は、どんな感情でこの話を聞けばいいのだろう。 さすがに混乱した僕は、何を血迷ったのか、 あまりに的外れでまぬけな質問をしていた。 「君は……男と女と、どっちが好きなの?」 夏来は「何だよその質問」としばらくゲラゲラ笑っていたけれど、 ひとしきり笑った後、一応ちゃんと答えてくれた。 「俺は両刀。  まあ6:4で男かな」 「そうですか…」 それを知ってどうするていうんだ。馬鹿なのか僕は。 「――性別はともかくとして。  わかってるとは思うけど、俺だって誰でもいいってわけじゃないんだよ」 「……?」 急に、夏来の声色が変わった気がした。 先程まで大きめのBGMのように鳴り続けていた波の音も、 まるで何かを察知したかのように、心なしか少し静かになったようだった。 「俺なんかに大金払ってくれるような奴なんて大体決まってんだ。  ぶよぶよのオッサンとか、マッチョの外国人とか、  そんなんばっかり。  こっちゃあ全然タイプじゃねーっつーのに」 「………」 「乱暴な奴に当たってしばらく激痛が治まらなかったことも、  嫌悪感で何時間も吐き続けたこともあった」 「――!」 嘘だろ、と思った。 そんなこと全くわからなかった。わかりようがなかった。 だって…夏来はいつだって、 笑顔で「ただいま」と帰って来て、 笑顔で「おかえり」と迎えてくれて… 「いってきます」の時も、「いってらっしゃい」の時も、 いつだって真夏の太陽みたいなキラキラの笑顔だったから……! 「…一番ヤバかったのはね、  医者だとか言ってた、頭が完全にイカレちゃってる人。  なんか緑色の液体が入った注射器突き付けて脅されて、  動物の死骸とかがある部屋に2時間ぐらい閉じ込められたの」 「えぇっ!?」 「一瞬の隙を突いて逃げ出したから、何とか助かったけど。  …でも、おかげですっかり医者が怖くなっちゃって、  今は病院に近付くこともできないんだ。  情けないだろ~?」 「――…」 おどけて見せる彼の嘲笑めいた顔が直視できなかった。 夏来が、あの夏来が… 優位な立場の男達に、監禁されて好き放題扱われていた……? この瞬間、得体の知れない感情が沸き上がって、身体が震えた。 夏来は僕を抱くとき、 あんなに慈しむように、優しく、どこまでも優しく包み込んでくれた。 その裏でそんな生活をしていたのなら、 僕に対してあんな優しい抱擁が出来るはずがあるのだろうか…? わからない。わからない。誰か教えてくれ…! けれどその答えは、 夏来がその口から、歌でも歌うように軽やかに語ってくれた。 「そんな状態で彼女のところに帰ることなんて、とてもできなかった。  こんな方法でしか金を得ることができないなんて、  情けなくて堪らなくて…。  何も知らずに待ってるアイツと顔を合わせる気になれなかった  だからこのところずっと会ってないんだ。連絡は取ってるけど。  一番大事な人なのに、顔を見るのが辛いなんて。  おかしな話だよな」 「………」 “一番大事な人”と、はっきりそう言った。 「……俺、  若波ちゃんが居なかったら、どうなってたかわかんない」 「……  ……  ――え?」 何…? 突然何の話なんだろう……? 「若波ちゃんの方はどうだかわかんないけど、  ――あの店で君を一目見た瞬間、俺は君に恋していた」 「………」 自分の耳が信じられなかった。 今、夏来は何と言ったの……? 「何となく一緒に住むような流れを無理やり作ったから、  多分すげー迷惑だったろうと思うけど…。  若波ちゃんが傍に居てくれることが、  俺にとって唯一の、精神的な命綱だったんだ」 ゆっくりと、夏来が立ち上がった。 促されてはいないけれど、僕も立ち上がる。 そうしなければいけない気がしたんだ。 アスファルトの地面に立っているのと変わらないような 凛とした佇まいの夏来とは違って、 僕は一度砂に足を取られて躓きそうになってしまったけれど。 「………」 僕の目線の10cmぐらい上に、夏来が居る。 初めて出会ったあの時も、 この瞳を見つめながら、この背伸び1つ分ぐらいの身長差を感じていた。 あの時は、彼の瞳の中に、店の間接照明の光などが映っていた。 今は――激しい夜風に吹かれた夏の海から、 たった今生み出されたばかりの若い波が映っていた。 「………」 「好きでもないオッサン共に滅茶苦茶にされて、  気が狂いそうになっても」 しなやかな腕が、背中に回される。 …今まで逞しいとばかり思っていたその腕は、 本当は僕が思っていたよりも、ずっと細かったのかもしれない。 けれどそのまま…強い力でギュッと抱き締められたら、 …やっぱり夏来は僕の知っている夏来だったことを実感できた。 「それでもこうして抱き締めていれば、  それだけで身も心も満たされることができた」 「………」 今この時、僕に向けられているのは、 疑う余地のない――夏来の本物の愛情だった。 本当に…それだけは間違いなかった。 でも――… 「――でも」 「……」 大好きだった両腕からそっと離れ、 再びその瞳と見つめ合う。 …僕は彼に向かって、自然と、心から自然と微笑んでいた。 「でも、一番にはなれなかったんだよね?」 「――」 夏来は何も言わない。 首を縦に振ることも、横に振ることもしない。 ただただ静かに僕に微笑み返すその美しい瞳が、 どれほど身勝手で残酷なものだったのか、 もう、全てを冷静に理解できたはずなのに。 僕の目に映っている夏来の姿は、 初めて出会ったあの時の、 キラキラと眩しい真夏の太陽のままだった。 曖昧さを愛し過ぎた僕達の関係は、 互いに微笑み合いながら、波の声に全ての感覚を委ねることで、 潔く、穏やかに、終わりを迎えた。

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