64 / 105

見送る 第1話

「そろそろ時間だね」 腕時計を見ながら、悠希は寂しそうにつぶやいた。 返事をしたかったが、言葉にならない。今、口を開いてしまったら、きっと「行くな」と言ってしまうだろうから。 何も言えないまま目を伏せると、悠希の足もとに置かれた荷物が見える。大きな旅行バッグとスーツバッグ……そのどちらも一人分だ。 「見送ってくれて、ありがとう」 そう言って悠希は微笑んだ。その瞳に光るものを見て、ますます胸が苦しくなる。 泣くくらいなら行かないでほしい。傍にいてほしい。 ……だが、それはただのわがままだ。言えるはずがない。 遠くへ旅立つ恋人に、ちゃんと「いってらっしゃい」と言ってやらなくては…そう思って口を開いたとき、新幹線がホームに入ってきた。 「じゃあ、行くね」 悠希は足もとの荷物を手にとると「啓吾さん、元気でね」と別れの言葉を告げた。 その手に、指輪はない。 「……ああ……悠希も」 「着いたら、電話する。メールもする」 「……楽しみに、待ってるよ」 車体が完全に止まると、ドアが開いた。列を作って並んでいた人々が順番に乗り、あっという間に悠希の番がくる。 「もう、乗らなきゃ…」 「ああ」 苦しい……胸が苦しい……それはきっと、二人とも同じはずなのに…… 新幹線に乗りかけた悠希は、くるりと向きを変えて一歩引き返すと、ホームに立つ俺の肩に自分の額を押し付けた。 「……啓吾さん、僕のこと…忘れないでね…」 「忘れるわけないだろ!」 こんなに想っているのに、忘れられるはずがない! 思わず声を荒げた俺の返事に安心したのか、悠希はふわりと微笑むと身を翻して新幹線に乗り込んだ。 「いってきます!」 悠希がそう言うと同時に、新幹線のドアが閉まる。ドアの向こうで悠希が小さく手を振るのが分かった。 俺も手を振り返そうとしたとき、列車が動き出し、あっという間に悠希を連れ去って行く。 走り出す暇もなく……新幹線はホームを出て、見えなくなってしまった…… 「………さよなら……悠希……」 「───で?」 「『で?』って、これで全部だけど?」 「はあ!?お前『苦しくて、つらくて、死にそう』って言ってただろ!?」 「そうだよ。かわいそうだと思っただろ?」 「思うかよ!別れるって、ただ、高瀬君が地元に帰っただけだろ!?成人式で!3日間だけ!」 大きな声で文句を言った田中は、持っていたグラスの中のビールを飲み干すとテーブルに叩きつけた。 「だいたいなあ!一生に一度の成人式なんだから、こころよく送り出してやれよ!大事なイベントだろ!」 「……イベントって言っても、スーツ着て、集まって、飲んで、騒ぐだけだし」 「いいだろ、それで!二十歳になって、みんな飲めるんだから同窓会も盛り上がって楽しいだろ!」 「その同窓会だよ!同窓会!……昔の恋人と再会して、お互い大人になった姿に『焼け木杭に火が付く』みたいなことにでもなったらさ!」 「……へー。高瀬君って地元で付き合ってた子と別れて、こっちに出てきたんだ?」 「いや、付き合うのは俺が初めて」 「お前、まじで帰れよ!!」 声を荒げた田中は俺の肩をグーで殴った。イライラしているのは十分わかっているが、帰るつもりはない。 「大体、何でお前が葵の家を知ってるんだよ!つーか、飲みの誘いを断ったんだから、察しろよ!今夜は葵と約束があるって分かるだろーが、お前なら!」 ……分かるよ。分かるから来たんだっつーの。 悠希を見送ったのが土曜日の朝。それから一日ひとりで過ごして……いつもの休日なら俺の家に悠希がやって来て一緒に過ごすのに、せっかくの三連休に離れ離れというのがどうにも寂しくて。 仕方ないから、日曜の夜に飲もうと田中を誘った。誘ったら、断られた。 何だかんだ言いながら情に厚いところのある田中は、俺からの飲みの誘いを断ることはほとんどない。それなのに今日は駄目。何故だ?……で、ぴんときた。 葵君と会うんだな。 俺が悠希と離れ離れで寂しいというのに、田中は恋人とイチャイチャ──許せん。 で、いろいろ酒を買い込んで葵君の家を突然訪問したのが、一時間前。田中は俺を見て玄関のドアを閉めたが、優しい葵君が中に入れてくれたというわけだ。 「僕、悠希君と長谷川さんにはそれぞれ年賀状を出したから。急にいらっしゃったから準備ができてなくて……食べ物、足りてますか?」 そう言いながら葵君は持ってきたお盆から、いろいろな薬味を山のように盛り付けた冷ややっこの皿をテーブルに並べた。 「準備が…」と言いながら、この一時間の間に次々に料理が運ばれ……本当に田中にはもったいない、できた嫁さんだよ。葵君。 「もう十分すぎるほどメシはあるからさ。お前もそろそろ座って食べろよ、ほら」 むすっとした顔のまま田中は声をかけると、「これ、うまい」と言いながら葵君の皿に鮭と枝豆のおにぎりを取り分けてやる。 すると葵君も、見るからに幸せそうな笑顔で「ありがとう」と受け取っていた。 ──いろいろあった二人だけれど、結局おさまるところにおさまった感じだな。 そんな二人を見ていると、やっぱり自分の隣が空いているのが切なくなって、持っていたグラスのビールを飲み干した。

ともだちにシェアしよう!