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第4話
もうすぐ玄関というところで、あわてて追いかけてきた啓吾さんの手が僕の腕をつかんだ。
「やだ!離して!」
「駄目だ!」
「やっ───啓吾さん!」
力一杯ふりはらおうとするけれど、僕の力じゃびくともしない。
帰りたい。帰らせてほしい。頭の中がぐちゃぐちゃだから……余計なことを言う前に……
「悠希!」
啓吾さんの必死な声が聞こえ、ぐっと無理矢理引っ張られたと思うと、気づけば僕は啓吾さんの腕の中にいた。
その勢いで手に持っていたものが、すべて床に落ちる。
「行くな、悠希」
耳元で啓吾さんの声がする。
───大好きな声なのに、どうして今日は聞くとこんなに苦しいんだろう。
「嫌なことがあるなら、ちゃんと言ってくれ。何でも聞くから……今、悠希が黙って出ていけば、またこの前の繰り返しになる……俺はもう、あんな思いはしたくないんだ」
啓吾さんの声も苦しそう……
このままではダメだとわかっている……わかっているけど……
話し終えて啓吾さんの力が緩んだ隙に、両手で力一杯押し返した。
体が自由になると、しゃがんで、落としてしまった紙袋を拾う。どちらかが踏んでしまったのだろうか、袋は少しつぶれていた。
……中身はどうなっているのかは、分からない。
喜ぶ顔が見たくて……大好きって伝えたくて……
ただそれだけだったのに。なのにどうしてうまくいかないんだろう。
紙袋を胸に抱えると、我慢していた思いがどろどろと渦巻き、溢れ出してくる……押さえきれない……
「───いらない」
「悠希?」
「チョコなんていらない!なんで啓吾さんのこと……好きな人がくれたものを、ぼくが食べなきゃいけないの!?」
「好きって……だからあれは義理でくれただけで……」
「違う!どうして分からないの?どれもこれも気持ちがこもってるよ!カードだって入ってたし!」
「───カード?」
「『好きです』って、書いてあった」
「……………」
すごくおいしそうなチョコだった。形も整っていて、綺麗にラッピングされていて……きっと、とても料理上手な素敵な女性なのだろう───啓吾さんにお似合いの。
僕なんて、梨花ちゃんに言われなければバレンタイン自体忘れていたし……
お菓子なんて一人で作れないし……
こんなに心も狭くて……
もう嫌だ……こんな自分。
「啓吾さんは素敵だから、たくさんの人から思われているんだよ。きっとその中に、啓吾さんにとてもお似合いの女の人がいるはず…」
「……悠希」
袋を抱えて立てなくなった僕の横に、啓吾さんもしゃがみこむ。
「ずっと……一緒にいる人なら、本当にふさわしい人がいいよ……僕なんて、啓吾さんに……」
ふさわしくない……というつもりだったのに、言えなくなった。
啓吾さんの人差し指が僕の唇にそっと当てられたから。
───『しー…』って形。
「それは言っちゃ駄目だよ、悠希。自分のことを悪く言っちゃ駄目だ……お願いだから俺の大切な恋人のこと、悪く言わないで」
そう言うと啓吾さんは、優しく僕を抱きしめてくれた。
───大切な恋人?
それって僕のこと?僕のこと、大切だと思ってくれてるの?
「一緒にいたいのは悠希だけだよ。どんな人だって、悠希のかわりにはなれない……」
啓吾さんはそっと僕の左手をとると、親指で指輪を優しくなぞった。とっても、とっても大事そうに……
………ああ、そうだった。
僕は一生恋人である証を、ずっと側にいる約束の印をもらっていたのに……また、不安になって逃げようとしたんだ……
ふぅー…と深呼吸をして心を静めると、気持ちを込めて伝える。
「啓吾さん……ごめんなさい……」
「こっちこそ、ごめんね……俺、無神経だった」
「ううん……僕がもっと自信をもっていれば、チョコぐらいで揺れなかったのに……」
啓吾さんは自分の頬を僕の髪に押しあてた。
「いや、俺が悪いんだよ。考えたら分かることなのに……甘いもの食べてるときの悠希、とっても幸せな顔するから、もらったチョコを食べさせたら喜ぶ顔が見れるかな……なんて、馬鹿みたいに単純に考えてたんだ」
───喜ぶ顔?
啓吾さん、僕を喜ばせたかったの?
「気持ちの込められたチョコもあることを考えてなかった。悠希にもくれた人にも失礼なことをしたよ……不安にさせてごめん」
───告白つきのチョコは、明日返すよ。
そう言うと、ゆっくり顔が近づいてきて、優しくおでこにキスしてくれた。
ふふ、変なの。さっきまであんなに胸が苦しかったのに、今はぽかぽかしている。
そうして、はりつめていた心がゆるゆるととけだした頃──
「……ねぇ、さっきからずっと持ってるその袋、何?」
啓吾さんに尋ねられる。
「……えーと……」
僕が大騒ぎをしている間にすっかり袋はぐしゃぐしゃになり、中身もどうなっているのか……
自分が悪いのだけれど、こんなものを渡すのかと思うとやっぱり悲しくて……もともと、なかったものにしたい……
でも、手伝ってくれた二人のことを考えると、なかったものにもできず……
「……あのね、あの……僕もしたかったんだ」
「何を?」
「……バレンタインデー」
思いきって、袋を啓吾さんの胸に押しつける。
「これ!……これ、プレゼント!もうしわくちゃだし、中身も……どうなっているかわかんないけど……でも、僕の気持ちだから、受け取ってください!」
「…………」
「…………」
「…………」
───ダメかなぁ。
泣きたい気持ちで、おそるおそる啓吾さんの様子を伺うと……啓吾さんはびっくりして、目を丸くしていた。
「……これ、チョコ?」
「ううん、ゼリー……啓吾さん、甘いもの苦手でしょ?だから甘くないコーヒーゼリー、作ってきたの」
「作った?……ということは手作りなの?」
「………うん」
おいしくなかったらごめんなさい……と続けるつもりだったけれど、それは言えなかった。
……啓吾さんが嬉しそうに笑って……笑うと目がなくなってしまう、僕の大好きな笑顔を見せてくれて……
僕は胸がいっぱいになって、何も言えなくなってしまったから。
「ありがとう……悠希……」
お礼をいいながら僕の頭を撫でてくれた。
その優しい手が嬉しくって……なんだかくすぐったくて……
思わず僕も目を細めると、啓吾さんは唇にそっと、お礼のキスもくれた。
───ああ、やっぱり啓吾さんはすごい。
僕が欲しかったもの、言葉も笑顔も優しいキスも……こんなに簡単に、すべてくれるんだ。
どうしよう。
バレンタインで僕のこと、もっと好きになってもらいたかったのに……結局もっと好きになったのは僕のほうみたいだ……
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