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第1話-3
玄関のドアを開けると、母親がリビングから出てくる。「おかえりなさい」と言う前に善也に気づいて、嬉しそうな声を上げた。
「あら善也君、うちにくるなんて久しぶりねえ」
その言葉に善也は笑顔で答えている。笑顔なんて、最近では見たことがなかった。完璧につくられた表情。のっぺりとした、嘘くさい善也の顔に母親が嬉しそうに上がるように促すと、「お邪魔します」と丁寧に答えていた。反吐が出る。
智はすべてを無視して二階にある自分の部屋へとさっさと入っていった。
ドアを閉めたところで足音は聞こえてくる。それが近づいてくるのが腹立たしくて恐ろしい。
善也は何も言わずに部屋に入ってくると、後ろ手でドアのカギを閉めた。ぎくりとして体をこわばらせる。智は何を怯えることがあるのかと、無理やり自分を奮い立たせた。
「ふうん。きれいにしてるんだね」
部屋を見回して善也が言う。智は彼の言葉にいちいち苛立った。
馬鹿にしやがって。
「お前何がしたいんだよ」
虚勢を張ったが口からもれる声は弱々しい。苛立ちと怯えと羞恥に頭がぐらぐらとする。善也がそっと近づいてきたのでじりじりと智は後退した。その自分の行動に舌打ちする。
「そうだね。もう一回キスでもしようか」
キス? さっきのあれが?
智は善也の口を思い切り噛んだので、唇の端に血がにじんでいる。しかし善也は意に介す様子もなく、素早く強い力で智の腕を掴んだ。ぐいと引っ張られ、ベッドに突き飛ばされる。されるがままに倒れてしまった智の上に善也がのしかかってきた。もうすでに、智は善也の唇に噛みつこうとしている。その弱々しい威嚇に善也はふっと息を漏らした。また笑われた。
「こういうことしたかったんだよね?」
「何を……」
言葉の途中で唇をふさがれ、噛みつこうと口を開くと、ぬるりと舌が口腔に入ってくる。ぞくりと背筋を震わせた智の目の前が真っ赤になった。押さえつけられて膝を割られているのでもがいてもダメージすら与えられない。舌を噛みちぎってやろうと力を入れると、己の舌をからめとられ、智の口から思いがけず小さな声が漏れた。今度は羞恥で顔が真っ赤になる。ねっとりといやらしい動きでしつこく口腔を犯され、体の力が抜けていく。智の頭は真っ白になり、目を細めて小さく呻いた。
ようやく離された唇から唾液が糸を引く。もう自分の頭がどういう感情になっているのかわからなくなってきた。
ふうと息を吐き、善也の口が嬉しそうに歪んだ。
「こういうことしてあげられるのは、僕だけだよ」
先程から善也が何を言っているのかわからない。もう一度激しくもがいて彼から逃れようとする。しかし、善也の顔がまた寄せられると、智はびくりと体を震わせ小さな息を吐いた。下を向いているせいで善也の前髪がさらりと前にたれ、目元がはっきりと見える。その目もまた、嬉しそうに歪んでいた。
「智くんさあ、ゲイだよね」
ざあっと顔から血の気が引いた。小さく体がわななく。かたかたと震え、善也がそれを知っている事実に戦慄した。
誰にも言わず、微塵も態度に出さずに隠し通してきたはずだ。そんなことがばれたら人生が終わる。人に気づかれるぐらいなら死んだ方がましだと思っていた。
なのになぜ。
「高校生だもんね。こういうことしたかったよね? 付き合ってあげたんだからお礼ぐらい言ってもいいんじゃない?」
カッと頭に血が上るが、その血もすぐに頭から落ちていく。冷汗が出て震えが止まらなかった。
「あれ、気づかれてないと思ってたんだ。まあ、隠しておきたいよね。千隼くんにでも知られたら、何されるかわからないもんね」
「お前……」
「大丈夫。僕は味方だよ。それにさ、キスよりもっと先のことにも付き合ってあげる」
「離せ!」
智の大声に善也が舌打ちすると、思い切り腹を殴ってきた。うっと息を詰まらせ、体をねじって抱えこもうとする。しかし両手は掴まれたままで、体の上にのしかかられていて身動きが取れない。もはや智には恐怖しかなかった。
「駄目だよ大声だしちゃ。おばさんにこんなところ見られてもいいの?」
その言葉にぐっと息を飲みこんだ。
善也は満足そうに笑うと、智のシャツのボタンに手をかける。胸やわき腹を撫でるように触られ、自分の意志とは裏腹にため息のような声が漏れた。
相手が誰でもいいはずがない。じゃあなんだ。善也ならいいのか。いや、ただ単に勝手に体が反応しているだけだ。自分の意思じゃない。
ベルトに手をかけられて、さすがに智は大きく体を動かして逃げようとした。しかし力ではかなわないことはもう証明されている。抵抗するだけ無駄なのだとわかっていても、だからといって大人しく受け入れられるわけがない。もう一度声をあげようとして、再び腹を殴られた。
「いやだなあ。僕が無理やりしてるみたいじゃない。反応してるのは智くんだよ」
言われて初めて気がついた。かすかに自分のものが起き上がっている。羞恥で気が狂いそうになった。こんなのは生理現象だ。そう思おうとしても、善也の手の動きにどこかで小さく期待していて、その自分の感情に吐き気がした。
直接触られてゆるゆると動かされると、言いようのない快感が背筋を駆け上がる。人に触れられたことなどなかった場所だ。智は息をもらして唇を噛みしめた。
「あは、気持ちいいんだね」
僕の手が。
もう怒りは沸いてこない。恐怖と羞恥だけが残り、快感が加わった。善也の手の動きが性急になると、無意識に腰が浮き上がる。ダメだと思っているのに止められない。もう何でもいいから出したい。こんなこと、早く終わって欲しい。これは強姦だ。気持ちいいだなんて思っているはずがない。そんな思考とは裏腹に、智は大きく体をしならせて善也の手と、はだけた己の胸に精を吐き出した。
ああもう。死にたい。気持ちいい。違う。気持ち悪いんだ。そうに決まってる。
ぼうっと余韻に浸りながら湧き上がってくる嫌悪感に耐える。
その時カシャリと音がした。
はっとして顔を上げると、善也がスマホをこちらに向けて写真を撮っていた。もう青を通り越して顔を紙のように白くしながら、慌てて起き上がると善也につかみかかる。スマホを奪おうとした手は空振りした。善也は腕を持ち上げて薄く笑っている。胸を思い切り叩いて、低い声で唸った。
「消せ! 消せよ!」
必死で伸ばした手はスマホには届かず、倒れこんだ智は善也に足で肩を踏みつけられその場に這いつくばった。
「これみんなに送っちゃったら大変だよね」
もう善也は笑い声を隠そうともしない。智は顔をあげて、涙を流して懇願した。踏みつけられている足とは反対の足に縋り付く。
「消してくれ! 頼む! 何でもするから!」
「ふうん」
「何でもしちゃうんだ」という善也の言葉に、智は再び青ざめた。
何をさせられるかわかったもんじゃない。しかしあの写真をばらまかれたら自分はもうおしまいだ。がたがたと震えだした智を踏みつける足に善也はさらに力を加える。今度はうずくまってしまった智の頭を踏みつけ、喉を鳴らした。
「じゃあ今日から智くんは僕の犬ね。よろしくね、ポチ」
智は絶望し、目の前が真っ黒になる。いったい今日だけでいくつの色を見てきたのか。
自業自得だと思えるほど、智の頭は機能していなかった。
「あ、智くんにもよく取れた写真送っておいてあげたよ」
言われて、ぐりぐりと押さえつけている善也の足を振り払って鞄に飛びつく。スマホを取り出すと、確かに写真が送り付けられていた。慌てて削除する。そして善也が、教えた覚えのない自分のアドレスを知っていることにゾッとして背筋を凍らせた。
怯えたまま智が固まっていると、善也は「また明日ね」と言って部屋から出て行った。
智は涙を流して唇を噛む。もうだめだ。何だあいつ。今までいったいどういうつもりだったんだ。声を殺して喉を震わせた智は床に突っ伏して、この惨めな現状を受け入れられずにいた。
あれを消さないと。あれを消さないと。あれを消さないと。
しんとした部屋に智の低い呟きだけが充満した。
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