2 / 19

第1話-2

 結局善也は五限目の授業が始まっても戻ってこなかった。授業が終わり、すっかりぬるくなってしまったペットボトルが入ったコンビニの袋を三人のもとへ持ってきたが、千隼にどつかれてぼとぼとと落とす。相変わらず前髪に隠れて表情がわからないまま黙ってそれを拾っていた。智が舌打ちすると、びくりと肩を震わせる。成雄が水の入ったペットボトルを拾い上げ、ふたを開けて飲んでいた。千隼のあきれたような顔を見もせずに、智にペットボトルを差し出してくる。喉が渇いていたので受け取り口をつけると、ちらりと善也がこちらを見上げた。 「何だよ」  睨みつけた智の視線から顔を背けると、小さな声で「なんでもない」とつぶやき、慌てて自分の席へ戻っていく。その態度に智はもう一度舌打ちした。  六限目の授業が終わり、腕を伸ばして机に突っ伏していると、開いた窓からそよと風が入ってきた。しかし一瞬で通り過ぎて行ってしまい、暑さは何も変わらない。いい加減暑いと言うのにも飽きてきた。  成雄と千隼が鞄を肩にかけてそばに寄ってくる。智も鞄を持ち上げて立ち上がろうとすると、千隼が満面の笑みで口を開いた。 「今日合コンなんだけど、智も来る?」  どうせ返事はわかっているくせに、いつもわざとらしく聞いてくる。智は舌打ちすると、顔を背けた。 「行かねーよ」  ぼそりと呟いた言葉が床に落ちる。千隼は大げさに嘆いて見せて、智の肩を叩いた。 「智ー、お前ノリ悪いって。一回ぐらい来いよ。そんなんだからいつまでも童貞……」  じろりと睨みつけた智の視線に、口元をひきつらせて言葉を飲み込んだ千隼を成雄がなだめている。ぶつぶつ言いながらも「じゃあな」とつぶやき背を向けて歩き出す千隼を追い、成雄は顔だけを振り向かせ、謝るような仕草をして一緒に教室を出て行った。  いつも合コンだ合コンだとバカバカしい。千隼はどうだかしらないが、成雄が行くと女が集まる。それを餌に毎回違う女をひっかけていく千隼は、決して誰とも付き合わず楽しむだけ楽しんでゴミのように捨てる正真正銘のクズだ。成雄は千隼に連れられて参加してはいるが、特に興味がないように思えた。餌にされているとわかっていて、ついて行くのもどうかしている。  智は鼻を鳴らすと鞄を持って立ち上がった。うだうだ考えながら教科書を鞄に詰めていたので、いつの間にか教室には誰もいなくなっていた。ふと気配を感じて横を向くと、善也が通路を遮るように立っている。先程から感じていた苛立ちが形となって善也にぶつかった。 「邪魔だ。どけよ」  力強く押しのけて教室を出ていこうとする。いつもなら、善也は床に転がっているはずだった。しかし今はなぜかびくともしない。目を尖らせて善也を睨みつけると、相変わらず前髪は目にかかっていたが、口元が見えるようになっていた。うつむいていないからだと気づき、余計にいらいらする。少し見上げなければいけないのでさらに腹が立つ。思い切り突き飛ばすと数歩よろけた。舌打ちするが、善也は通路を譲ろうとはしない。 「さっき……」  かすれたような声で善也がぼそぼそと言葉をこぼした。 「成雄くんが口をつけた水飲んでたよね」  瞬間的に目の前が真っ赤になった。言いようのない苛立ちがいや増して、智は善也を思い切り蹴飛ばした。いや、蹴飛ばそうとした。その足を善也に掴まれて引っ張られる。窓の桟に頭をぶつけ、床に倒れこんだ。呻いて頭を押さえると、足を掴んだまま突っ立っている善也を睨みつけた。 「お前、ふざけんな!」  どうしていつものように弱々しく倒れないのか。言葉ですら言い返したことのない善也が、今反撃に出ている。その事実に智の理解が追い付かない。足を掴まれたままでは立ち上がれず、無様に床に転がって善也を見上げるしかなかった。 「水、飲んでたよね?」  膝をついて、足を押さえたまま智ににじり寄ってくる。なぜか急に恐ろしくなって、智は力のない拳を振り上げた。その手も軽々と掴まれる。壁に押さえつけられて、反対の腕で喉元を押しつぶされた。 「気持ちわりい、なんだよお前」  苦し気に喘ぐような声しか出ない。腹の底がずしりと冷えた。純粋な恐怖が体を支配し始める。押さえつけられている腕に力をこめるが、びくともしなかった。 「離せ……このっ……」  喉を空気が通らず、息苦しくなっていく。顔すら動かせず、押さえつけている善也の腕を掴んでひっかいた。善也がふっと息を吐き出すように笑いを漏らす。まるで馬鹿にしたような、嫌な響きだった。  徐々に善也の顔が近づいてきて、唇が触れそうになる。何をされているのか意味がわからなくて、引きつった小さな悲鳴がこぼれ出た。ぐっと唇を押し付けられ、智は反射的に噛みついた。びくりと善也の体が震えたが、唇は離れない。屈辱に顔を真っ赤にし、もがきながら逃れようとする智をあざ笑うかのように、善也は顔を離し唇を歪めた。 「だめだよ勝手なことしちゃ。智くんは僕の物なんだから」  もがいてももがいても、善也の腕や体は離れない。本当に何が起きて、そして善也が何を言っているのか全く分からないまま、怒りよりも先に怯えが顔に出てしまった。 「一人じゃ何にもできないもんね、智くんは」  喉を鳴らして笑うその様はいつもの善也とは別人だ。 「力じゃかなわないってわかった?」  すっと体を離され、喉を押さえていたものがなくなると、急に入り込んだ空気に思い切りむせる。喉元に手をやり引きつった呼吸を繰り返しながら善也を睨みつけるが、しかしもう、怒りはすべて恐怖に取って代わっていた。善也が立ち上がり、青ざめている智の腕を引っ張り上げる。皮膚に食い込みそうなほど指に力をいれて握り締められ、智は痛みに顔を歪めた。 「今日智くんの家行っていい?」  精一杯の虚勢を張って、智は口を歪めて「は?」と言葉を返す。しかしさらに腕を強く握り締められ、呻いて俯くことしかできなかった。 「行っていいよね?」  善也の顔がすぐそばにある。耳元で声に力をこめられ、智は軽く体を震わせた。肯定以外聞き入れられない。そもそも問うてすらいないのだ。こんな理不尽な目に合ういわれはないはずだと自分のことを棚に上げ、智はまだ善也の言いなりになる気はなかった。しかし、腕を離してもらえない。まだ横にある善也の口元から漏れた呼吸が耳をくすぐり、智はきつく目を閉じた。 「わかったよ」  こぼれた声は力なく床に落ちる。善也が体を離し、そのまま腕を引っ張って行こうとした。 「離せよ」  こんなところをほかの奴らに見られたくない。思い切り腕をふって反対の手で善也の腕を握り締め、指をはがそうとする。ぴくりともしない善也の指の力に今日何度目かの戦慄が智を襲う。今までの善也はいったい何だったのかというほどに、彼の力は強かった。ぐいと引っ張られるまま歩を進めるが、足を踏ん張ってもう一度腕を振りほどこうとした。 「離せ!」  ぱっと手が離された。みっともなくたたらを踏む。善也は振り向いて、口元に笑みを浮かべた。 「逃げても無駄だからね」  そうなのだ。逃げ場なんてどこにもない。  善也とは幼馴染だ。こんな関係になる前は、互いの家を行き来するような仲だった。一人で走って帰ったとしても、善也は智の家を訪ねてきて、きっと母親は自分の意思を聞かずに勝手に家に上げてしまうだろう。  ぎりりと奥歯を噛みしめ、拳に力を入れる。しかしもう、智に善也を殴りつけるような気力は残っていなかった。  うなだれながら教室を出る。  善也は少し離れて後ろをついてきた。  一応智の立場を考慮しているのか。それがより一層智のプライドを傷つけた。

ともだちにシェアしよう!