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第4話

 どんより曇り空の今日は、いつもよりも蒸し暑く依然として風がない。救いようのない天気に心も曇る。智は地面に膝をついて千隼にからかわれている善也を見下ろしていた。 「ジュース買って来いよ。今度は校内の自販機でいいからさ。俺お茶ね」  千隼はいつも喉が渇いているらしい。何度目かの飲み物を要求する言葉に、智も乗っかった。 「じゃあ俺コーヒー」 「げー。超甘いやつじゃん。よくあんなの飲めるな」  自分が普段どれだけ甘ったるい物を飲んでいるのかわかっていないらしい。からかえる要素が少しでもあれば千隼はからんでくる。智と千隼が成雄を振り返ると、成雄は息を吐き出すように笑って言った。 「俺いちごミルク」  二人とも思い切りふきだした。成雄も笑っている。冗談だったようだが、善也はもう走り出していた。 「最近合コン人集まんないからつまんねーよ」  千隼がぶつぶつと愚痴を言う。成雄を連れて行っても、人が釣れないらしい。それはお前のせいだろうと智は思ったが口には出さなかった。成雄も苦笑して壁にもたれかかっている。千隼は面白ければ何でもいいただの馬鹿で、きっとまたろくでもないことを嗅ぎつけては大いにそれを囃し立てるのだろう。女がいなければゴシップだ。とことん下品だ。  善也が腕にジュースの紙パックを抱えてよろよろと戻ってくる。千隼は肩で息をしている善也には構わず、さっさとお茶のパックを取っていた。智もコーヒーを受け取る。 「ありが……」  とう、という前に善也の口の端がぴくりと動いた。 「お前、遅いんだよ」  成雄にジュースが行き渡ったところで智は善也を思い切り蹴り飛ばした。ざざっと肩を擦らせ地面に倒れる。千隼が「買いにいかせたのにひでー」と手を叩いて喜んでいた。げほっと咳を吐き出して善也がうずくまり、腹を押さえている。 「だいじょ……大げさに痛がるんじゃねえよ」  言いかけた言葉の途中で善也がぴくりと肩を動かし、智は慌てて言葉を変えた。たぶん誰も気づいていない。大丈夫だ。大丈夫なはずだ。 「ちょっと俺トイレ」  慌てて背を向けて校舎へ戻ろうとすると千隼が嬉しそうに声をあげた。 「お前飲む前に出すのかよ」  ぎゃははと大声で笑っているが、それを無視して歩き出す。あいつは下品なだけだ。放っておけばいい。それよりも。  校舎に入ると智は走り出した。トイレの個室のドアを大きな音を立てて開け、また大きな音を立てて閉める。とたん、胃の中の物が全部上にあがってきて、口をふさぐ間もなくすべてぶちまけて咳き込んだ。はあはあと肩で息をしながら、また上がってきた胃液を吐きだす。なるべく周りにばれないようにしたいが、どうしても声が漏れてしまう。智は涙を流して鼻をすすった。  今ここにいる現実と、善也と一緒にいる現実。乖離しすぎていてどれが本物の自分かわからない。なるべく皆の前では普通にしている。おそらく様になってきているはずだ。そう考えていること自体がおかしい。善也の言いなりになっているのが自分だ。じゃあ何だ。言いなりになってみんなと笑いながら善也を蹴飛ばしているのか? 何だそれは。意味が分からない。普通にするっていったい何だ。普通にするのならば飲み物を買ってきてもらえばお礼を言うのだ。蹴り飛ばしてしまったら謝るのだ。そうじゃなかったか。俺はどうして今まで善也をいじめてきたのだ。何がおもしろかったんだ。もう訳がわからない。  再び鼻をすすると、呼吸を落ち着けるように息を吐き出した。目をこすって頬を張る。わざわざ人の少ないトイレまで走ってきたのだ。周りに人の気配はなかった。口をすすいで顔を洗うと外に出る。そこで智の体は固まった。ぞっとするほど全身が冷えた。冷汗がこめかみを伝う。  トイレの出入口で成雄が腕を組んで壁にもたれていた。 「な、何してるんだよ……」  唇の端をひきつらせて笑いながら言った言葉は、しかし最後の方で息をもらすように消えいった。成雄はこちらを見ずに、体を壁から離す。心臓が大きな音を立てて、口から何か出てきそうだ。吐き出せるものは吐き出したが、それでもまだ何かが残っているのか。どうしてここがわかったのだ。思い切り走ってきたはずだ。それについて成雄も走ってきたとでも言うのだろうか。バカバカしい。じゃあなぜ、成雄はここにいる。 「智。お前どうしたの? 本当に、何があった?」  硬い表情でこちらを向き、智の肩に手を触れた。赤くなった目の色に気づいているのだろう。そんなことがなくても、きっと成雄は何でも気づく。本当は吐き出したい。すべてぶちまけてしまいたい。でも、あの写真が。それよりも。善也の言いなりになっている自分を知られるのが耐えがたい。言いなり。本当に? 自ら望んではいないか? いや、違う。そんなわけがない。 「気持ちわりーな。お前俺のストーカーかよ」  鼻で笑うように言うと、成雄は少し眉をひそめた。言い過ぎた。ぐっと体温が下がる。震える手を押さえつけた。まだ言い逃れできるはずだ。まだ窮地には陥っていない。 「智、何で吐いてたの?」  頭が真っ白になった。いったいいつからここにいたのだ。 「善也に対する態度だって柔らかくなってるし」 「そ、そんなことねえよ」 「弱みでも握られた?」  ごくりと唾をのみ下した。成雄は本当は全部知っていて、それなのにわざと俺に確かめているのではないだろうか。いやそんなはずはない。いったいどこをどうすれば他人にもれるというのだ。善也はまだ何もしていないはずだ。写真だって、スマホの中にあるだけだ。善也にはそれを見せるような親しい人間はいない。第一、毎日のように家に来て、殴ったり踏みつけたり、そして甘いこともしてるんだ。そんな善也が、俺を裏切るはずがない。  成雄は何も言わない智を見下ろして小さくため息をついた。 「心配してるんだよ。体調壊すほどの何かをされてるのかって。その青い顔、鏡で見てみる?」  智は成雄の腕を掴み、頭を振った。違うと言いたいのか、それ以上言うなと言いたいのか、わからない。だいたいどういうつもりでそんなことを言ってくるのかもわからない。いや、心配してるって言ってるじゃないか。友達として、俺を心配してくれているだけだ。わざと追い詰めているわけじゃない。  ぐちゃぐちゃと頭の中が思考で散らかって、智はもうその場に倒れ伏してしまいたかった。  どうしてみんな、俺を責めるんだ。  成雄が再び小さく息を吐くと、そっと肩に手を乗せた。優しい笑顔。智は思わず泣きそうになり、深く俯いた。 「大丈夫だ。体調が悪いのはきっと暑さのせいだよ。心配かけて悪かった」  だって今、普通だろ? さっきみんなで笑い合っていたじゃないか。  成雄は納得のいかない表情をしていたが、何も言わずに智の背中を押す。 「保健室いく?」  そう言われて、もう何もかも忘れて眠ってしまいたくなった智は小さくうなずいた。

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