「あの！」 「え……？」 日菜子は気怠そうにナオを見つめてきた。 「何？笑いに来たの？」 「違います……あの、これ……涙、拭いてください」 ナオは日菜子にハンカチを差し出す。 「まだ使っていないので、大丈夫です」と言えば、彼女は「何が大丈夫なのよ？」と口角を上げながら言う。 それでも、涙が溢れ続けている以上、ナオのハンカチを借りる以外の選択肢はなさそうで、 「ありがと」と短く言って使い始めた。 「バカなヤツ……」 幸太郎はゼミ室の向かいの窓から、校門に佇む日菜子にハンカチを貸してやるナオを見つめ、呟いた。 放っておけばいいものを、どこまでお人好しなのだろう。 だが、多分ナオのそういう優しい部分に、幸太郎も甘えているのかもしれない。 それにしてもナオとは不思議な存在だなと思う。 最近の幸太郎は、気付けばナオのことばかり考えるようになっていた。 先日まで論文で通い詰めていたゼミ室内は、今日は他の学生が来て講義を受けるということで、賑わいを見せていた。 だが教授が入室してくると、途端に静寂が訪れる。 皆デスクの上でテキストを開き、教授の話を聞きながら必要に応じてノートに書き込んだり、テキストに書き込んだり、熱心に授業に取り組んでいる。 そんな中、幸太郎はひたすらぼんやりしていた。 講義の内容は聞こえていても、頭の中を素通りしていくようで、何の知識も蓄積されない。 「坂上、何を考えているのかな？」 とうとう教授が幸太郎を咎めるような声を発した。 少し離れた席に座っていたナオも、一体どうしたのかと幸太郎へ視線を向ける。 「何も考えてません。講義、続けてください」 「何も考えていないということは、私の講義についても考えていない。そういうことかね？」 幸太郎はしばし沈黙した後、「そういうことになります」と包み隠さず言ってしまった。 疲れていた。 ようやく共同論文を提出したと思えば、学校に日菜子が押しかけており、その相手をしていたら消耗した。 これからまだ卒論が残っているのかと考えると、気が重い。 就職活動にも本腰を入れなければならない時期だと分かっているが、まだ履歴書を1枚も書いていない。 「帰りなさい、坂上」 教授の声は冷ややかだった。 そりゃあそうだろう。 ゼミとは少人数で学ぶ場であり、そこにやる気のない者が1人でもいれば無気力が他の学生に伝染してしまいかねない。 「分かりました。すいません」 幸太郎は机の上のテキスト類をバッグの中に詰め込むと、教授に一礼してからゼミ室を後にして行った。