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episode.1-4

*** 「萱島さん」 「……」 「萱島さん、どうしました」 「え?」 慌てて振り返る。 ハンドルに身を預けた戸和が、此方を覗き込んでいた。 「や…何もない、です」 「じゃあもう車出しますけど、眠いなら寝てて構いませんよ」 確かに寝てはいないが眠くはない。 現実の向こう側へ意識を飛ばしていた。 正午を過ぎた頃合いで、萱島は戸和が迎えに寄越した車中に居た。 再び枯れた街路樹と晴天を見上げ、生返事をする。 車は静かに走り出した。 たった2人きり、音もない密室が酷く落ち着かない。 1人そわそわと、萱島は視線の所在すら分からずに彷徨った。 不意に隣の彼を見れば、書類も持たないプライベートの手がギアを回す。 濃紺のデニムシャツを、此処まで着こなす人間を初めて見た。 素直に格好いいと出かけた。 ハンドルを握る、長骨の浮いた手に時計とアクセサリーが煌めく。 「…アメジスト」 「ん?」 信号待ちで止まるや、萱島はその腕に手を伸ばした。 「誕生石だ」 悪戯に笑う上司に、青年が瞬く。 「今月ですか」 「そう」 「日付は?」 「一昨年だから…今年は…無いな」 29日か。 直ぐに思い至り、戸和は希少な日付に感嘆した。 「あれ閏年じゃないといつになんの?」 「29日は便宜上1日にする方が多いそうですが、平年に“誕生日とみなされる日”は28日ですね」 民法上は、と付け足した。 未だ信号は変わらない。 戸和は徐ろにアクセサリーの留め具を外し、萱島の手首に付け直していた。

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