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episode.1-9

家族連れが、学生らのグループが、カップルが、老夫婦が、次々と目前を過ぎて席を埋める。 萱島は、光景をとても貴重な事の様に見ていた。 「“Subliminal Affection”」 半券に記載されたタイトルを声に出した。 「…俺が眠くなる様な映画?」 「眠くはならないと思いますよ」 字面からは内容が想像できないが、この部下の事だから。 先ずラブストーリーやコメディの類では無い。 考える序で、ふと隣の部下を見やった。 睫毛が長い。少し髪が伸びた。 どうでも良い観察へシフトした矢先、前触れなく照明が端から落ち始める。 (え、) 話し声が俄に静まる。 間も無く上映が始まるらしかった。 観客らの囁きが静まり、次第にひんやりした空気が落ちる。 皆が期待に胸を躍らせる中、萱島は1人全身を強張らせていた。 (こんなに、暗くなるのか) どうしても。今になっても、完全な闇が駄目だった。 光が閉ざされると身体が竦んだ。 情けない事に、頭があの家を思い出してしまう。 心臓が早鐘を打ち、意図せず拳に力を込める。 始まったシネマアドが直ぐに場内を照らしたが。 先の衝撃が未だ拭えない。 背筋を冷たい物が走る。 息苦しく胸を押さえた。 その時、隣から届いた声が焦燥を掻き消していた。 「萱島さん」 瞑られていた目を開く。 不意に指先が、融解する様な温度に包まれた。 「どうしました」 助けの方角を振り向いた。 此方を覗く、いつもの迷い無い目を見た途端、不思議な程するすると焦りが立ち退いていた。 「…あ、えっと」 言葉が出ない。 視線を落とせば、戸和の手が重なる様に自分の手を握り締めている。 詰まった理由は恐怖じゃない。 萱島の五感は、既に残らず其方へと持って行かれていた。

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