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episode.1-19
「あの…今日は本当にありがとう」
「いいえ」
エントランス裏手の街路樹で向かい合う。
ポケットに手を入れて、萱島は意図せず視線を落とした。
何か気の利いた言葉でも浮かべば良かったが。
「じゃあ、また明日」
そんなありきたりな挨拶だけで。
この日が終わってしまう。
顔を上げれば其処へ居る部下に、じわりと目頭が熱を持つ。
帰りたくない。
帰らないで欲しい。
さっき整理が付いたと思えば、また年甲斐もなく我儘が首を擡げる。
此方を見送る気なのか。
去ろうとしない相手の袖口を、気付けば掴んでいた。
青年が僅かに目を見開き、萱島は自分の行いにはっとした。
「…、あの」
何を言おうとした訳でも無かった。
ただ喘ぐ様に息を漏らした。
慌てて指先を離そうとした寸前、
急に視界が真っ暗になった。
身体が温かい。
強い力に拘束されて身動ぎが出来ない。
背中に腕が回り、更に引き寄せられる。
抱き締められていた。
戸和に。
状況を理解したのは、一体何秒後の事だったか。
人通りの無い、暗い街路樹で一歩も動けない。
それ所か締め付けられ、呼吸すら奪われて、萱島は頭が真っ白になっていた。
「…おやすみ」
耳元で、知らない声が言った。
漸く身体を離された後、知らない目が此方を見ていた。
彼は誰だ。
車中へと消える相手を、萱島は棒立ちになって見送った。
まばらな街灯が照らす車道を、黒い国産車が殆ど音も無く走り去る。
夢だったのかもしれない。
今日の事は全て。
萱島は未だ、その場から動けず白い息を吐いた。
夢だったのだろう。
そうでなければ分からない。
今どんな顔をすれば良いのかさえ。
引き寄せられた、抱き締められた感触が残る、
背中の熱が消えず、何も考えられず。
紅潮した頬で足元を睨んだ。
とても今直ぐ、マンションに帰るなんて出来そうもなかった。
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