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episode.2-5

「萱島さん、顔上げて」 「い、いやだ」 萱島は頑なに拒否した。 伏せた睫毛が、僅かに震えた。 「…どけよ、戸和」 緊張にどうにかなりそうだった。 夢だと思っていた、 昨夜の知らない誰かが今、目前に居た。 ふと視線が逃げ道を捜し、左隣のドアへと移る。 相手は敏くそれを察した。 戸和は視線を遮る様に、右腕を壁に突いた。 「…っ」 衝撃に薄い肩が跳ねる。 もう密着しそうなレベルで、青年の身体が迫っていた。 助けの来ない部屋で凍り付く。 まるで逃げ場は無いと態々教え込む様に、戸和は身を屈め、耳元へと顔を寄せた。 「主任」 直接鼓膜に声が流し込まれた。 全身を、耐え難い疼きが襲った。 萱島は咄嗟に、彼のシャツを掴んで押し返そうとした。 黒い双眼が俯き、震える非力な相手を捉える。 「や…やめて」 消え入りそうな声が乞うた。 「何を」 「そこ、で…しゃべんないで…」 泣くかもしれない。 このまま息付く間も与えず、攻めていれば。 可哀想だと思わなくも無い。 突然の事に、何も出来ない上司を見て。 ただ今まで思わせぶりな態度をとっておいて、 此方が追い掛けたかと思えば、急に逃げ出すのは如何な物か。 「…分かりましたから」 戸和は漸く、閉じ込めた身体から退いた。 怯えた目が伺う様に見上げていた。 「今日終業後にはなりますが、会社には戻りますので」 その時は、ちゃんと話をしましょう。 青年は言い残し、資料室から先立って姿を消してしまう。 孤独になろうが、萱島は未だ抜け出せずにいた。 眉根を寄せ、溶け落ちそうな右耳を押さえた。 只管に焼かれた様に熱かった。 右耳も頬も首元も両手も、身体の余すところ無く、内側に至るまで全部。

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