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episode.4-9
乾いた紙面を万年筆が引っ掻く。
孤独な部屋をそれと、掛け流されたラジオの曲だけが埋める。
『――種の本能も忘れ、余計な賢さで人はいつも無駄なことばかり』
アコースティックギターと陳ねた声。
9時15分に帝都ホテル、45分に赤坂へ、11時から商会長と食事、の前にメンテナンスの打ち合わせ、その間にメールで保留中の商談の続きを、
本郷の頭の中で分刻みの予定が次々と組み立てられ、中途で不意に万年筆が止まる。
明日、また彼女と会う時間を加えるのを忘れていた。
微塵の隙間もなく、ぎゅうぎゅうに嵌ったピースを、目を眇めてどうにか動かそうとした。
『ソクラテスに問うんだ、檻に佇む君の幸せを』
若い男のロクに発声のやり方も知らない、感情に任せた歌声が割れた。
“貴方のそれって優しいんじゃない、私を傷つけてるのよ。”
昼間の曇り空の下に晒された、彼女の本音が頭の中に反響した。
『考え抜いた答えさえ、独り善がりという世の孤独』
ペンを置いた。
なら、どうすれば良かった。
この紙上に書かれたすべてより、何よりお前を優先して、片時も側を離れずに一緒に居てやれば良かったのか。
(何より?)
『足元を見て、何もない』
懸命に思考を戻そうとした。
他所の事を考えれば、それだけ後の予定を遅らせなければならなかった。
カツン、
実に軽い音を響かせ万年筆が落下した。
『無駄なこと考えるのやめてしまえ』
音階もなくギターをかき鳴らした。
ペンを拾おうとした本郷の手が、宙でぴたりと止まっていた。
『君はソクラテスに勝てるんだ』
男が叫んだ。
何が大事だとか、何のために生きているだとか、そんなこと。
そんな下らないこと。
理解して自覚して呼吸する人間こそが、希少種に違いなかった。
酷いのはどっちよ。
まっさらな思考に彼女の言葉が流れ込み、気付けば上着の拳銃へと手を伸ばしていた。
『人間であることを終わらせるんだ』
指先が冷たい凶器に引っ掛かった。
掴み、急所へと構えていた。
別に今日である必要も、ない必要も無かったのだ。
ただほんの少し繋がっていた糸が切れた。
本郷にとっては、それだけの話で。
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