90 / 203
episode.5-1 「the box」
「ふーむ…その辺りの希望なら、月に7、8万が妥当ですかね」
若いしゅっとした男が、業界人の如く派手なスーツに見を包んで首を捻った。
そのノーフレームの眼鏡の奥を覗き込み、萱島は眉を寄せる。
「他にご希望は?」
「もう今週中にでも、即時入居出来る物件でお願いします」
「なるほどなるほど…お急ぎですね、えー…でしたら、あれ?お客様失礼ですが…」
言葉の間の沈黙も埋めていたタイピング音がぴたりと止んだ。
画面から視線を外し、店員がまじまじと此方を見ていた。
「これ今のご住所“エル・グランデ”って…まさかその手のご関係者では無いですよね、すみません、念の為なんですが」
「…まさか」
萱島は悪びれもせず白を切った。
ぶっちゃけ黒川の頼みで、未だ籍は抜いていない。
以前の賃貸契約でも問われたが、黙っていれば存外にバレないものだ。
「そうですよね、いやいや失礼しました。排除条例とかで色々厳しくなってまして…」
「とんでもない。治安悪いですからね、彼処」
カウンターに気持ち程度に置かれた飴を突く。
黄色の包み紙を取り上げて、口に放り込んだ。
安価で量産された人工甘味料が舌を焼いた。
それを何の不満もなく、ころころと転がしながら、ふと思い至って不動産屋に注文を加えた。
「あ、後そうですね…出来れば東十条の付近で」
「東十条ですか?勤務先から離れてしまう様に思いますが」
「いえ、あの…まあ」
日差しの差し込む、ブラインドの隙間へ視線を逃がす。
「…知り合いが住んでまして」
そうですか、と店員は簡素に答えた。
口中の飴が急に甘酸っぱい味に変わり、萱島は落ち着きなく指先で膝を叩いた。
さあて。
いい加減社長の自宅を出ようと決意したのは、幾つか訳があった。
1、前の同業者しか居らず鬱陶しい。
今朝などは、無意識に孝心会の若頭の車のドアを開けに走っていた。
まったく。エントランス付近ではしょっちゅうAVの撮影に出会すし、ロクな物ではない。
2、さすがに自立を考えなければならない。
年も年なのだし、この間通帳の残高を二度見したのも理由である。
ともだちにシェアしよう!