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episode.5-1 「the box」

「ふーむ…その辺りの希望なら、月に7、8万が妥当ですかね」 若いしゅっとした男が、業界人の如く派手なスーツに見を包んで首を捻った。 そのノーフレームの眼鏡の奥を覗き込み、萱島は眉を寄せる。 「他にご希望は?」 「もう今週中にでも、即時入居出来る物件でお願いします」 「なるほどなるほど…お急ぎですね、えー…でしたら、あれ?お客様失礼ですが…」 言葉の間の沈黙も埋めていたタイピング音がぴたりと止んだ。 画面から視線を外し、店員がまじまじと此方を見ていた。 「これ今のご住所“エル・グランデ”って…まさかその手のご関係者では無いですよね、すみません、念の為なんですが」 「…まさか」 萱島は悪びれもせず白を切った。 ぶっちゃけ黒川の頼みで、未だ籍は抜いていない。 以前の賃貸契約でも問われたが、黙っていれば存外にバレないものだ。 「そうですよね、いやいや失礼しました。排除条例とかで色々厳しくなってまして…」 「とんでもない。治安悪いですからね、彼処」 カウンターに気持ち程度に置かれた飴を突く。 黄色の包み紙を取り上げて、口に放り込んだ。 安価で量産された人工甘味料が舌を焼いた。 それを何の不満もなく、ころころと転がしながら、ふと思い至って不動産屋に注文を加えた。 「あ、後そうですね…出来れば東十条の付近で」 「東十条ですか?勤務先から離れてしまう様に思いますが」 「いえ、あの…まあ」 日差しの差し込む、ブラインドの隙間へ視線を逃がす。 「…知り合いが住んでまして」 そうですか、と店員は簡素に答えた。 口中の飴が急に甘酸っぱい味に変わり、萱島は落ち着きなく指先で膝を叩いた。 さあて。 いい加減社長の自宅を出ようと決意したのは、幾つか訳があった。 1、前の同業者しか居らず鬱陶しい。 今朝などは、無意識に孝心会の若頭の車のドアを開けに走っていた。 まったく。エントランス付近ではしょっちゅうAVの撮影に出会すし、ロクな物ではない。 2、さすがに自立を考えなければならない。 年も年なのだし、この間通帳の残高を二度見したのも理由である。

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