114 / 203
episode.6-1 「excessively」
「経ちましたね1週間」
カラン、と萱島の指先からスプーンが滑り落ちた。
大した衝撃を立てる事もなく、落下物は鍋に張られた水中へ沈み込んだ。
「…な、何が?」
白を切って冷蔵庫を開けた。
今日は引っ越しに向けた諸々の道具も入り用になるし、日が沈むまでには帰ろうと決めていた。
動揺が透けた浅い演技で、掴んだミネラルウォーターを呷る。
「あ、そう言えばさ…」
態とらしく話材を変えた折、背後に気配がした。
振り返る事すら憚られる。
次の言葉を探し倦ね、萱島は量産型の薄い容器を握り締めていた。
「っと、」
戸和くん。
情けない。口が役目を果たさぬまま閉じる。
後ろから伸びた手が抱き締めている。
背中に彼の体温が張り付き、萱島の思考は瞬く間に霧散した。
「もう良い年した大人なんですから」
隙間もなかった。
落ち着いた声が直に耳元に降ってきた。
「子供みたいに逃げ回るのは止めましょうか」
ゆらゆらと容器の中の水面が揺れていた。
視線のやり場すら分からずに、何の意味もなくそんな物に助けを求めていた。
「な、何の話?」
ああまた、不用意に家なんて来るから。
逃げ場がなくなるのだ。
さしもの萱島も学習していながら、今日また玄関を跨いでいた。
先日不動産屋を訪れ、割と条件のいい物件が見つかった。
即断で大家との話も済ませ、入居できる手筈になったのだ。
晴れて社長のヒモから脱した訳だが、引っ越しともなると丸一日を費やさねばならない。
今日のところは青年に挨拶だけ寄越し、早々と退散するつもりでいたが。
「それより…昨日な」
「萱島さん」
「へ?」
「釦掛け違えてる」
「え、ああ…」
本当だ。
でも別にそんなの、放って於いていい。
いいから、そのゆっくり回す手を、止めて。
唇を噛んだ。
戸和の手が、不格好な2段目を外そうとしていた。
「や、い、良いから」
その手を懸命に掴む。
不気味な位静かなマンションが、只管に恨めしかった。
ともだちにシェアしよう!