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episode.7-1 「new life」
良い朝だ。
住宅街が橙に綺麗に色づく。
厳寒の過ぎる気配に撫でられ、大気は柔らかだ。
最も気温の落ちる今でさえ氷点下は免れた。
ワイパーの不要なフロントガラスを前に、甘い珈琲を啜った。
隣では態々車を出してくれた副社長がハンドルを握っていた。
それを尻目に、時折役に立たない指示を投げる。
「あ、右」
「…今のか?」
遅すぎる。本郷が眉を顰めるのを見て、萱島は慌ててシートから身を起こした。
「や、問題ない次を右に…ん?何で俺右って言ったんですか」
「左なんだな」
文句も挟まずハンドルを切った。
いや右だったかな。
冷や汗が伝う。なんせ未だ数回駅から案内されただけで、正確な方向など頭に入っていなかった。
「2丁目ならこっちだろ」
「凄えや本郷さん…どうして知らん土地が分かるんだ」
「お前がちょっと視線を下げた所に液晶があるだろ。良く見てみ、其処に番地まで出てんだよ。それカーナビって言うんだぜ」
「…知らなかった。目覚ましい発展だ」
白々しい口調で画面を覗き込む。
確かに先から矢印がぐるぐる動いていたものを。何故気付かない。
なら何もかんも、自分の指示は全てが余計だった訳だ。
憮然と缶を揺らし、部下は再びシートに沈んだ。
「良い所だな」
前方を射抜いたまま不意に感想を漏らした。
「何も無いですよ」
「静かだ」
「…それはまあ、確かに」
他人が居ないだけで静かなのに、環境まで無音なのか。
考えてみれば一人暮らしの期間の方が長かった筈が、すっかり気配のある家に慣れてしまった。
今日からもう誰も居ないのだ。
家具は発注先の業者が全部持ってくる。
元々借家だったのだから、最低限の荷物だけでこうして車に乗り、やっとこさ簡単な引っ越しを終えようとしていた。
(本郷さんもあんまり、会えなくなるのだろうか)
運転席を盗み見た。
黙って前だけ向いた彼に、言葉を掛けようとして止めた。
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