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episode.8-6
「…戻ろう」
意識をどうにか引き上げる。
確かに一生下地に残りこそすれ、正面から向き合うなど無謀に過ぎた。
早く帰って仕事がしたかった。
それだけが唯一、泥濘の足場を固めてくれる気がして。
心臓が五月蝿かった。
何か矢も盾もたまらぬ素振りで跳ねていた。
(人が多い)
駅前とは言えローカルだ。
其処へ疎らに帰路を辿るサラリーマンが現れ、訳も分からずたじろぐ。
誰も彼も無関心だ。
足早に踏切を跨いで行く。
それが何故か、自分を凝視している様に感じる。
此処に本来、居てはならない自分を。
先とは異なる焦燥が焼いた。
間抜けに、改札前で途方に暮れた。
時の止まった萱島を呼び戻したのは着信音だった。
はっとして現実に帰り、携帯を掴み取った。
「も…もしもし」
『沙南、お前未だ定例会とやらか?』
良く知った声が届く。
ようやっと力が抜けた。
逆立ったものが痛みを生みながらも、そよ風に撫ぜられる。
「あ、いえ…もう戻ります」
『なら仕事の話があるから、俺も会社寄るわ』
「分かりまし…」
野良猫だったのかもしれない。
視界の端に写り込んだ影に、萱島は咄嗟に首を向けた。
(まさか)
路地に何か居た。
猫じゃ無かった。
(…嘘だ)
影の蟠りだ。それに目が浮かんでいた。
鼻も分かる。
口が笑った。
遠く彼方に死んだ筈の殺人鬼が、此方を見ていた。
「……っ」
“生きているんだな君の中では”
いつかの神崎の台詞が反響する。
気付けば通話を切り、その場を背に公道へ駆け出していた。
手を掲げてタクシーを呼ぶ。
一刻も早くこの場を離れなければ。
生み出した生霊に、飲み込まれる前に。
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